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二条院讃岐
(ふじわらのきよすけあそん。1108年~1177年)
父は武将・歌人として有名な源三位頼政(げんさんみよりまさ)です。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての歌人で、女房三十六歌仙の一人です。父や兄から歌を学び、18歳頃には二条天皇に仕えていました。二条天皇は和歌を好み、84番・藤原清輔を重用し、三河内侍や小侍従ら多く女流歌人とともに二条院歌壇で活躍しました。天皇が23歳の若さで崩御した後は、藤原重頼(しげより)と結婚し平穏な結婚生活を送っていたと思われます。ところが、源氏の長老として平清盛から信頼されていた父が、平氏討伐のために挙兵し、父も、15歳年上の兄も、宇治平等院の戦いに敗れ自害してしまいます。2人の死後は、後鳥羽天皇の中宮、宜秋門院任子(ぎしゅうもんいんにんし)に仕えました。後鳥羽院歌壇の「正治百首」や「千五百番歌合」に参加して才能を発揮したり、京都白川の85番・俊恵法師の別邸で開かれた「歌林苑(かりんえん)」の歌合にも参加しています。「わが袖は」の歌は当時から大評判となり、以後彼女は「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになりました。97番・定家からも認められ、「新古今集」にも16首選ばれています。家集に「二条院讃岐集」があります。晩年には出家し、70代後半に亡くなっています。 |
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二条院との贈答歌が「二条院讃岐集」に残っています。
●讃岐「花ならず 月も見置し 雲の上に 心ばかりは 出(いで)ずとを知れ」(もっと近侍していたかったのに、やむなく退出しましたが、心ばかりは残して来たことを知ってください。)
二条院の御返し「出しより 空に知りにき 花の色も 月も心に 入(いれ)ぬ君とは」(退出したのを知って、昨夜眺めていた花の色も月も、まったく心に入っていなかったのだとわかりましたよ。)
●「山高み 峰(みね)の嵐に 散る花の 月に天霧(あまぎ)る 明方の空」(高い山にあるので、峰の嵐によって散る桜、その花が、月の光をさえぎり、曇らせている、明け方の空よ。「新古今集」散る桜を夜明けの薄明のうちに見るのは、当時愛されていました。)
●「五月雨の 雲まの月の はれゆくを しばし待ちける 時鳥(ほととぎす)かな」(梅雨を降らせる雲の切れ間の月、雲が晴れて、月の光が照り出すのを待っていた時鳥であるよ。「新古今集」)
●「秋の夜は たづぬる宿に 人もなし たれも月にや あくがれぬらむ」(秋の夜、知合いを訪ねて行ったけれど、家には誰もいない。私と同じに月に誘われて皆外出してしまったのだ。「玉葉集」)
●「みるめこそ 入りぬる磯(いそ)の 草ならめ 袖(そで)さへ波の 下に朽(く)ちぬる」(海松布(みるめ)は波の下に隠れてしまう磯の草でしょうが、私の見る目はかなわないばかりか、ひたすら隠した恋心で、袖まで涙という波の下で朽ちてむなしく終わってしまうのです。「新古今集」)
●「昔見し 雲居(くもゐ)をめぐる 秋の月 今幾年(いくとせ)か 袖(そで)に宿さむ」(昔眺めた、宮中の空をめぐってゆく秋の月よ、これから幾年、涙の袖にその光を映して、ひとり眺めることでしょう。「新古今集」宮仕えしていた昔、宮中で親しんだ秋の月が忘れがたく、余命の少ない身に、懐かしく思い出すことがこれから幾年あるのかという実感のこもった歌です。) |
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●父の頼政は平家全盛期に源氏としては従三位という高い位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と呼ばれました。歌人として優れていた頼政は83番・藤原俊成や85番・俊恵法師、90番・殷富門院大輔など多くの著名歌人と交流があったことが知られ、「詞花集」以下の勅撰集に59首入集しています。俊成は「今の世には頼政こそいみじき上手なれ」、俊恵法師は「頼政卿はいみじかりし歌仙なり」と述べています。讃岐は恵まれた環境で歌才を伸ばし、父や兄と俊恵法師の主催した歌林苑に参加しました。
●「濡れた袖」は古典ではよく使われる表現で、「新古今集」の題詠「暁に帰らんと欲する恋」の讃岐の歌に「明けぬれど まだ後朝(きぬぎぬ)に なりやらで 人の袖をも 濡らしつるかな」(もう夜が明けたけれど、まだ袖を分けて別れる後朝になりきらないうちから、私の袖だけかあなたの袖まで涙で濡らしてしまったことです。)があります。讃岐の歌風を当時の歌書は「風体艶(つや)なるを先として、いとほしきさまなり。女の歌かくこそあらめとあはれにも侍るかな」(おもわせぶりでいじらしい、女の歌はこうありたいものだ。「歌仙落書」)とほめています。 |
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● 父は武将・歌人として有名な源三位頼政(げんさんみよりまさ)です。弓の名手の頼政が内裏で怪鳥・鵺(ぬえ)を射落とした伝説の鵺池が、二条公園にあります。 |
●俊恵法師は「頼政卿はいみじかりし歌仙なり」と述べています。讃岐は恵まれた環境で歌才を伸ばし、父や兄と俊恵法師の主催した歌林苑に参加しました。歌林苑は南区久世殿城町の福田寺(ふくでんじ)で開かれ、後に京都白川の僧坊へ移されたといわれています。 |
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●源氏の長老として平清盛から信頼されていた父が、平氏討伐のために挙兵し、父も、15歳年上の兄も、宇治平等院の戦いに敗れ自害してしまいます。 |
●藤原摂関家の邸宅・高陽院(かやのいん)で開かれた高陽院七番歌合に、67番・周防内侍、72番・紀伊とともに参加しています。現在は「高陽院ハイツ」というマンションになり、ビル前に説明板があります。 |
●三重県四日市市にある昭和幸福村公園の歌碑には歌人画が入っています。「わが袖は」の歌は当時から大評判となり、以後彼女は「沖の石の讃岐」と呼ばれるようになりました。 |
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