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壬生忠岑
(みぶのただみね。生没年未詳)
9世紀後半から10世紀前半頃の人で、41番・壬生忠見(みぶのただみ)の父親です。左衛門(さこのえ)番長として帝の側近を守る役でしたが、右衛門府生(うえもんのふしょう)に配転されて宮中の外回りを警備、御厨子所預(みずしどころのあずかり)などの役を経て、六位摂津権大目(せっつごんのだいさかん)と官位は低かったのですが、13番・陽成院にも仕えたらしいです。歌人としては有名で、多くの歌合に加わりました。「古今集」の撰者の一人、三十六歌仙の一人でもあります。「古今集」に35首、勅撰集に約83首が選ばれています。また、55番・藤原公任の著した「和歌九品(わかくほん)」では、上品上という最高位の例歌として忠岑の歌があげられ、「拾遺集」の巻頭歌として「春立つと」の歌が撰ばれています。後世まで高い評価を得ていたことがわかります。家集に「忠岑集」があります。 |
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●「春立つと 言ふばかりにや み吉野の 山も霞て 今朝は見ゆらむ」(立春がきたというだけで、春の到来が遅い吉野山も、今朝は春霞にかすんで見えているのだろうか。「拾遺集」)
●「春日野の 雪間をわけて 生ひ出でくる 草のはつかに 見えし君はも」(春日野の雪の間を分けて芽生え、育ってくる草のように、ほんのちょっとだけ見えたあなたですよ。「古今集」春日神社の春祭りに行った時、見物に来ていた女の家を探し当てて贈った歌です。)
●「千鳥鳴く 佐保の川霧 たちぬらし 山の木の葉も 色まさりゆく」(千鳥の鳴く佐保川の川霧は、今頃立ちこめているにちがいない。目の前に見ている佐保山の木の葉がこうも色づいているのだから。「古今集」)
●「神奈備(かんなび)の 三室(みむろ)の山を 秋行けば 錦たちきる 心地こそすれ」(神奈備の三室の山を秋のさなかに越えて行くと、紅葉がちらほらと散りかかり、私はまるで錦の着物を着ているような気持ちがします。「古今集」)
●「み吉野の 山の白雪 踏み分けて 入りにし人の おとづれもせぬ」(吉野山の雪を踏みしめ、かき分けるように、仏の道を求めていったあの人が、姿を見せるどころか、便りさえもくれぬことよ。「古今集」吉野山に修行のために山ごもりする人があったようです。仏道に励む人を思いやる歌です。)
●「風吹けば 峰にわかるる 白雲の 絶えてつれなき 君が心か」(白雲は風が吹くと峰から別れて、吹きちぎられ絶たれてしまいます。あなたの心も絶えてまったく無情なものではありませんか。「古今集」恋歌)
●「時しもあれ 秋やは人の 別るべき あるを見るだに 恋しきものを」(一年の季節もいろいろあるのに、よりによってこの秋に人が永の別れを告げていいのだろうか。生きて元気である友達を見ていたって心細くなるというのに。「古今集」古今集の撰者に任命されてまもなく、33番・紀友則が亡くなりました。その時の哀傷歌です。) |
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●「大和物語」には、藤原定国の随身をつとめていた忠岑が、即興の歌を詠んで主人の苦境を救った話があります。酒に酔った定国が、夜遅く左大臣藤原時平の邸を訪れたのです。突然の来客に邸は大騒ぎになり、「どこにおいでになったついでなのでしょう。」と時平も驚いた様子です。そこで、忠岑が寝殿の階段のたもとにひざまずいて、「かささぎの わたせる橋の 霜の上を 夜半(よは)にふみわけ ことさらにこそ」(天上の階段に置いた霜の上を、夜更けにふみ分けて、わざわざうかがいました。よそに行ったついでではございません。)と、大伴家持の歌を詠みかえ、主人に変わってごあいさつすると、時平は「たいそう心にしみておもしろい」と感心し、定国を迎い入れます。忠岑もほうびをいただきました。
●「十訓抄」には人生一度の歌の失敗として、春の歌に「白雲の下り居る山」と詠んだところ、まもなく帝が退位され、表現の忌(い)まわしさが世の歌人の戒(いまし)めとなったと記されています。
●「古今集」の「雑躰(ざつてい)」には、華やかな宮中の近くに仕える左衛門(さこのえ)番長から外回りの警備に転任になったことを嘆く長歌(ながうた)が採られています。「…春は霞に たなびかれ 夏は空蝉(うつせみ) なき暮らし 秋は時雨(しぐれ)に 袖(そで)を貸し 冬は霜にぞ 責めらるる…」(春はたなびく霞のように心が晴れず、夏は蝉のように泣き暮らし、秋には袖の涙が時雨に宿を貸したよう、冬は霜に責められるような苦しみ方です。)と四季のありさまを描いて、身分が低く年が高いことの苦しさは大変だ、顔をおおう老いのしわは、難波の浦に立つ波と同じだと詠っています。
●「後撰集」によると、官位の低さを35番・紀貫之に訴えたりしています。また、「古今集」の撰集直前には、定国の四十歳を祝う屏風歌を、21番・素性法師、29番・凡河内躬恒、34番・藤原興風、35番・紀貫之とともに詠んでいます。 |
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●新選組のイメージが強い壬生寺(みぶでら)ですが、平安前期から続く寺です。壬生は平安時代には低湿地で延命地蔵菩薩の霊場でした。忠岑の家は、壬生の西、坊城東綾小路の北四条の南にあったようです。 |
●壬生狂言は「壬生大念仏狂言」といい「壬生さんのカンデンデン」という呼び名で京の庶民に親しまれてきました。珍しい仏教パントマイムで700年の歴史を持つ京の代表的民俗芸能です。 |
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●忠岑邸跡から発掘されたという忠岑愛用の硯があります。「拾遺都名所図会」に「壬生忠岑の硯は壬生寺にあり。石の色紫にして硯の縁の傍らに忠岑の文字あり。当寺の北、田の中より掘り出す」と記されています。この硯は旅硯というもので、古風なので中華物のようだという記述もあります。壬生寺の冊子に紹介されています。 |
●小夜の中山に忠岑の歌碑「東路の さやの中山 さやかにも 見えぬ雲井に 世をや尽くさん」(東国への道中の佐夜の中山よ、都を離れてはるか遠くここまで来たが、はっきりとも見えない遠い旅の空の下で生涯を終えることであろうか。「新古今集」)があります。旅路で生涯を終える人の心になっての作でしょうか。(静岡県掛川市小夜鹿) |
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