プロフィール 伊勢

伊勢
(いせ。872年頃~940年頃)

 伊勢守・藤原継蔭(つぐかげ)の娘。35番・紀貫之や29番・凡河内躬恒と並び称される古今集時代の代表的歌人で、三十六歌仙の一人です。歌才に恵まれ、漢詩文の知識も豊かでした。「古今集」に女流歌人では最多の22首、以下の勅撰集を含めて184首も入集しています。地方官の娘という低い身分でしたが、とても美しいうえに気立てがよく、多くの貴公子に求愛されました。宇多天皇の中宮温子(おんし)に仕えましたが、まず温子の弟の藤原仲平(なかひら)と恋仲になります。伊勢は心から愛するようになりますが、仲平は時の権力者である基経の次男であり、大臣の娘と結婚して伊勢のもとを訪れなくなります。傷ついた伊勢は宮仕えを辞めて父の任国である大和に引退しましたが、温子によって都に呼び戻されます。すると、仲平の兄・時平をはじめ何人かの男性に言い寄られますが、伊勢は宮使いに専念します。やがて温子の夫である宇多天皇からも愛され、行明(ゆきあきら)親王を生んで、伊勢御息所(みやすどころ)と呼ばれました。しかし、息子の行明親王は幼くして亡くなります。宇多天皇が退位されると、その第4皇子・敦慶(あつよし)親王とも結ばれ、女流歌人の中務(なかつかさ)を生んでいます。晩年は家を売るほど生活に困ったともいいます。美しさと才能を兼ね備えた恋多き女性として、波乱に満ちた人生を送りました。家集に「伊勢集」があります。
代表的な和歌
●「散り散らず 聞かまほしきを 故郷の 花見て帰る 人もあはなむ」(もう散ってしまったのか、それともまだ咲いているのか、早く尋ねたいものです。花見から帰る人にでも、出逢えないものでしょうか。「拾遺集」賀茂斎院(かものさいいん)の屏風(びょうぶ)絵に添えた歌です。)
●「春霞 立つを見捨てて 行く雁(かり)は 花なき里に 住みやならへる」(春霞が野山に立ちこめるのを見捨てて北へ帰っていく雁は、花の咲かない里に住みなれているのでしょうか。「古今集」春を知らない土地ばかりに住みなれた雁に、寒々とした自分の心情を重ねています。)
●「三輪の山 いかに待ち見む 年ふとも 訪ねる人も あらじと思へば」(「恋しくはとぶらひ来ませ」と古歌にも詠われた三輪山で、どのように待って、あなたに逢えるというのでしょうか。たとえ何年経とうとも、訪ねてくれる人などあるまいと思うので。「古今集」仲平との恋に破れて、伊勢は宮仕えを辞めて父の任地、大和の国へ身を寄せる時、この歌を仲平に送ったのです。)
●「あひにあひて 物思ふころの わが袖に やどる月さへ ぬるる顔なる」(よくもまあぴったり合って、物思いに沈んでいると私の袖の涙に映った月影までが、涙にぬれたような顔つきをしています。「古今集」月の顔から自分自身の泣きぬれた顔をイメージしています。)
●「思ひ川 たえずながるる 水のあわの うたかた人に 逢はで消えめや」(思い川の絶えず流れる水、そこに浮かぶ泡のようにはかなく、あなたと逢わずして消えるなどということがあるでしょうか。「後撰集」転居先を知らせずに家を移した伊勢のもとに、かつての恋人から「ようやく探しあてた、もうこの世にはいないかと思ったぞ」と手紙が届いた時の返歌です。)
●「難波なる ながらの橋も つくるなり 今は我が身を なににたとへむ」(難波にある長柄の橋も新しく架けかえられると聞きます。今となっては、古びた我が身を何にたとえましょうか。「古今集」淀川の河口付近に架けられていた橋で、たびたび壊れて架け替えられました。朽ち果てた様子や橋柱のみ残っている様などがよく歌に詠まれました。)
●「ひとりゆく ことこそ憂けれ ふるさとの 奈良のならびて 見し人もなみ」(一人で行くことが辛いのです。昔住んでいた奈良、その故郷を二人並んで見物した人も今はいないので。「後撰集」実家に住んでいた母が亡くなり、大和国へ行く時の作です。)
●「山川の 音にのみ聞く ももしきを 身をはやながら 見るよしもがな」(今は人のうわさに聞くばかりの宮中ですが、私の身を青春時代に戻して、この目で見てみたいものです。「古今集」の詞書によると宮廷より命ぜられて歌集を献上した時、末尾に書き添えた歌です。宮仕えしていた昔に戻って、再び華やかな宮中を拝見したいと、宇多天皇の代を懐かしむ思いを詠んでいます。中宮温子が亡くなった907年後の作と思われます。「古今集」巻18雑歌下の最後を飾る歌です。)
エピソード

●「今昔物語」巻24第31には、醍醐天皇が伊勢に屏風歌を詠ませようと、藤原伊衡(これひら:敏行朝臣の子)少将を五条の伊勢の実家に遣わした話があります。「容姿や人柄をはじめすべてに奥ゆかしく風情があるすばらしい方で、和歌は当時の躬恒や貫之にも劣らぬほどである」とあり、簾(すだれ)の中からほのかに聞こえる声や気高い気配に、少将は「世の中にはこんなすばらしい女性もいるのか」と思います。女房に勧められて少将が酒を飲むうちに、歌が出来上がります。紫の薄様の紙に書かれた「散り散らず 聞かまほしきを 故郷の 花見て帰る 人もあはなむ」の歌は、小野道風(おののみちかぜ:平安中期の有名な書家。)が書いたものに少しも見劣りしない筆跡であり、後醍醐天皇も感嘆したそうです。屏風の絵は、桜の咲いている山路を行く女車が描かれていました。
●平安後期、「古今集」「後撰集」「拾遺集」の三つの勅撰集は、特に三代集と呼ばれ、歌人たちが手本としました。男性歌人ばかりの三代集の中で、女性歌人としてはいずれも最多の入集を果たしています。「後撰集」では、第一位・貫之の74首に迫る70首が伊勢の歌です。
●大阪府高槻市奥天神町は、宇多天皇の没後、伊勢が草庵を造り、晩年を過ごした地で、伊勢の死後、「伊勢寺いせじ」の名で寺が創始されたといわれています。 ●伊勢寺には大きな案内板が設置されています。毎年12月20日を伊勢姫忌として法要を行っているそうです。
●伊勢寺の中門の外に「難波潟」の歌碑があります。
●伊勢寺の境内には、「古今集」の伊勢の歌「見る人も なき山里の 桜花 ほかの散りなむ のちぞ咲かまし」(見る人もいない寂しい山里の桜の花よ。いっそほかの花が散ってしまった後に咲けばいいのにねえ。)の歌碑もあります。 ●三重県四日市市の昭和幸福村公園にある歌碑には伊勢の姿が描かれています。