プロフィール 赤染衛門

赤染衛門
(あかぞめえもん。958年頃~1041年までは生存)

  赤染時用(あかぞめときもち)の娘と言われていますが、「袋草紙」には、母が妊娠して間もなく前夫の40番・平兼盛(たいらのかねもり)と離婚し、時用の妻となったので、実父は兼盛だと伝えています。「衛門」は父の官名からとられています。56番・和泉式部と並ぶ才女で、和歌だけでなく漢文の才もありました。藤原道長の繁栄を描いた「栄花物語」正編の作者だという説があります。関白・藤原頼通の求めで、「赤染衛門集」を自選しました。藤原道長の正妻・鷹司殿倫子(たかつかさどのりんし)と、その娘の中宮彰子(しょうし)に仕えました。初めの恋人は大江為基(ためもと)でしたが、早くに病死しています。そのいとこの大江匡衡(おおえのまさひら)と結婚し、2人の子どもを生みました。夫の匡衡は、天皇の侍読(じどく:学問の教授役)、文章博士(もんじょうはかせ)をつとめた秀才で、夫婦仲が良かったそうで、匡衡衛門とも呼ばれました。また、息子の挙周(たかちか)の仕事や恋愛にもあれこれと世話をやく、面倒見のいい母親でした。恋多き和泉式部とは対照的に良妻賢母のお手本とされてきました。夫の死後は尼僧となり、85歳以上まで生きました。73番・大江匡房(まさふさ)はひ孫です。多くの代作の歌を残した赤染衛門は、穏やかで思いやりの深い人柄が尊敬され、周りの人々から頼りにされていたのでしょう。57番・紫式部、62番・清少納言とも交流がありました。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人で、「拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に93首が入集しています。
代表的な和歌
●「踏めば惜 し踏まではゆかむ 方もなし 心づくしの 山桜かな」(踏んではもったいない。踏まなければ行きようもない。心をやきもきさせる山桜の散り花であるよ。「千載集」)
●「君とこそ 春来ることも 待たれしか 梅も桜も たれとかは見む」(あなたと一緒だからこそ春の訪れも待たれたのです。梅も桜も、誰と共に見ればよいのでしょうか。「赤染衛門集」夫の死の翌春の作です。)
●和泉式部の前夫橘道貞が陸奥国へ赴任するのを聞き、道貞と離別した和泉式部を気づかう優しさに満ちた歌として、「行く人も とまるもいかに 思ふらん 別れて後の またの別れを」(赤染衛門)は有名です。それに対し、和泉式部から「別れても 同じ都にありしかば いとこのたびの 心地やはせじ」(和泉式部)と心情を打ち明けた返歌が届いています。ずいぶんと同情や忠告の歌を贈ったようです。
●「明日ならば 忘らるる身に なりぬべし 今日を過ぐさぬ 命ともがな」(明日になれば忘られてしまう身になってしまうのなら、いっそ、今日を限りに翌日に過ぐさない命であってほしい。「後拾遺集」
●「恨むとも 今は見えじと 思ふこそ せめて辛さの あまりなりけれ」(恨んでいると今は見られたくないのです。そう思うのは、あなたの態度がひどくつれなかった余りのことなのですよ。「後拾遺集」娘のもとに通いを絶やしていた藤原道綱のもとへ、娘に代って贈った歌です。「なぜ恨み言を言わないのか」と言う道綱に対し、恨まないのは表面だけのこと、弱みを見せたくない女の心を察してほしいと訴えています。)
●「いかに寝て 見えしなるらむ うたたねの 夢より後は 物をこそ思へ」(どのような寝方をして、あなたと逢った夢を見えたのでしょうか。うたたねの夢から覚めたあとは、物思いばかりしています。「新古今集」枕の置き方、方角などによって夢見をコントロールできるとの俗信がありました。)
●「名を聞くに 長居しぬべし 住吉の まつとはとまる 人や言ひけむ」(住吉(住みよい)という名を聞くと、あなたが長く滞在しそうですね。住吉の松〔住みよい所で待つ〕とはわたしでなく そこに滞在している人がおっしゃったのではないですか。早くお帰りになってください。「赤染衛門集」)摂津国へ行った匡衡から「あなたが恋しくて何も他のことが考えられません」という歌が届いた時の返歌です。
エピソード
●「十訓抄」には夫の大江匡衡が55番・藤原公任に辞表の代作を頼まれ、悩んでいたところ赤染衛門が「公任は自尊心が強い人だから、先祖の功績を述べて、昇進への不満を書き連ねればいいのでは」と助言して公任に喜ばれた話を読むと、人間観察の鋭さや批評眼がうかがわれます。夫の任地で起きた農民の騒動を神社に献じた歌の効験によって鎮めた話など、内助の功は有名でした。
●息子の挙周(たかちか)にかかわるエピソードは「今昔物語集」巻24にあります。息子が重い病気になった時、病の身代わりになるから助けてくれと住吉明神に歌を捧げたら、その夜のうちに病気が治ったというのです。「代はらむと 思ふ命は 惜しからで さても別れむ ほどぞ悲しき」(身代わりになれるなら、私の命など惜しくはありません。けれど、やはりこの子と別れなければならないのが悲しく思われます。)また、息子の出世が遅いことを嘆いた歌を藤原道長の正妻・鷹司殿倫子(たかつかさどのりんし)贈ったところ、道長の胸を打ち、息子は和泉守(今の県知事)になれたという話もあります。「思へ君 頭(かしら)の雪を うち払ひ 消えぬ前にと 急ぐ心を」(わが白髪の頭に降りかかる雪をふりはらい、その消えぬほどの短い命のある間に、わが子が何とか早く官を得てほしいと思うせつない親心を、わが君よ、どうぞお察しください。)
●「紫式部日記」で、57番・紫式部は62番・清少納言のことはひどくけなしていますが、赤染衛門については、さほど気品があるというわけではないけれど、慎み深い人で、むやみに和歌を詠み散らしたりしないとほめています。「ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとて、よろづのことにつけて詠みちらさねど、聞えたるかぎりは、はかなきをりふしのことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくもおぼえはべるわざなり。」(歌は格別に優れているほどではありませんが、実に由緒ありげで、歌人だからといって何事につけても歌を詠みちらすことはしませんが、世に知られている歌はみんな、ちよっとした折の歌でも、それこそこちらが引け目を感じるような立派な詠みぶりです。それにつけても、どうかすると上の句と下の句が離れてしまいそうな腰折れがかった歌を詠み出して、何ともいえぬ由緒ありげなことをしてまでも、自分こそ上手な歌詠みだと得意になっている人は、(赤染衛門と比較すると)憎らしくもまた気の毒にも思われるというものです。)
●赤染衛門は都の郊外にある深山の険しい道をたどり、鞍馬(くらま)寺や貴船(きふね)神社奥宮(おくのみや)に参拝しています。 ●「ともすらむ 方だに見えず 鞍馬山 貴船の宮に とまりしぬべし」(すっかく暗くなって、手明かりの先の鞍馬山も見えなくなってしまいました。今夜は貴船神社に泊まることとしましょう。)貴船(きふね)神社奥宮(おくのみや)です。 ●赤染衛門の夫、大江匡衡は文章博士になるほどの秀才で、尾張権守に任じられました。3度にわたって国司として尾張に赴任しました。松下公民館の横に尾張国衙址(おわりこくがし)の石碑があります。
●赤染衛門も夫に同行しました。彼女が衣を掛けたと伝えられる、赤染衛門衣掛け松跡です。 ●藤原公任から辞表の代作を頼まれた夫に、的確なアドバイスをしたり、病気になった息子のために住吉明神に歌を奉納したら、たちまち病が治ったという説話も残っています。 ●国府の近くには、はだか祭で有名な国府宮(こうのみや)があります。(愛知県稲沢市)