プロフィール 前大僧正慈円

前大僧正慈円
(さきのだいそうじょうじえん。1155年~1225年)

  76番・法性寺関白藤原忠通(ふじわらのただみち)の6番目の息子です。父は37年間も摂政関白の地位にあり、兄は九条兼実(かみざね)、甥(おい)は91番・摂政良経(よしつね)という、貴族社会の頂点にあった一族ですが、10歳で父を亡くします。11歳で青蓮院(しょうれんいん)に入り、13歳で出家しました。21歳の時には、比叡山に登り千日入堂(千日間無動寺で過酷な修行を行う)を果たしています。37歳の時に天台宗の座主(比叡山延暦寺の僧侶の最高職)となり、47歳で大僧正に任じられましたが、わずか数か月で辞し、前大僧正と呼ばれました。混乱の続く政治の争いの中で、辞任と復任を4回も繰り返しました。仏教界の対立とともに、藤原氏の勢力が徐々に弱まり、貴族そのものが衰退して武士の時代へと移り変わり、やがて鎌倉幕府の成立と内紛という激動の時代を生きぬき、71歳で亡くなりました。法名は慈円ですが、没後13回忌に四条天皇より慈鎮(じちん)和尚という諡(おくりな:偉い人に対して死後にその徳をたたえて贈られる呼び名)をいただいています。和歌への情熱も深く、甥の良経や97番・定家とともに、当時の歌壇に新風を吹きこみました。その歌風を99番・後鳥羽院に高く評価され、「新古今集」撰修のための和歌所の寄人(よりうど)に選ばれました。西行法師の94首に次いで、第2位の91首入集しています。後鳥羽院の「隠岐本(おぎぼん)新古今集」には88首と、西行と並ぶ多さでした。家集に「拾玉(しゅうぎょく)集」があります。承久2年(1220)には、日本で初めて歴史を論じた歴史書「愚管抄(ぐかんしょう)」を書き上げています。彼は、公家と幕府の協調を理想と考え、後鳥羽院の倒幕のくわだてをいさめたといいます。
代表的な和歌
●「やよ時雨 物思ふ 袖のなかりせば 木の葉ののちに 何を染めまし」(これ時雨よ、もの思いをする私の袖がなかったとしたら、木の葉を染めてしまったのちには、何を染めるのであろうか。「新古今集」冬)
●「思ふこと など問ふ人の なかるらん 仰げば空に 月ぞさやけき」(私の思い嘆いていることを、どうして問い慰めてくれる人がいないのであろうか。仰いで見ると、空に月がさやかに澄んでいることだ。「新古今集」雑歌)
●「わが恋は 庭の群萩(むらはぎ) うら枯れて 人をも身をも 秋の夕暮」(私の恋は、庭の群萩の葉末が枯れている、そのように、心が離れ離れになって、人をも自分の身をも恨み飽きた秋の夕暮れよ。「新古今集」恋歌。当時評判にとなった秀歌3首です。)
●「大江山 かたぶく月の 影さえて 鳥羽田(とばた)の面(おも)に 落つる雁がね」(大江山に沈みかかった月の光がさえて、鳥羽田の面に下りてくる雁の群れの声がしきりであることよ。「新古今集」鳥羽田は鳥羽の田んぼのことで、現在の京都市伏見区。和歌の名所でした。)
●「ただ頼め たとへば人の 偽(いつは)りを 重ねてこそは またも恨みめ」(ただひたすら私を信じなさい、それでもし私が偽りを重ねるようなら、その時こそは改めて私を恨めばいいでしょう。「新古今集」歌合の題詠は「契る恋」で、恋人の不信を買い、改めて誠意を約束する男の心を詠んだ歌です。)
●「暁(あかつき)の 涙や空に たぐふらん 袖(そで)に落ちくる 鐘の音かな」(一晩中恋人を思い明かした、この暁の涙が、空で鐘の音といっしょになっているのであろうか。袖に、涙とともに落ちてきて、身にしみて響く鐘の音であることよ。「新古今集」題詠は「暁の恋」)
●「皆人の 知り顔にして 知らぬかな 必ず死ぬる 習ひありとは」(人は皆、「人間はだれでも必ず死ぬものさ」と心得顔で言っているが、本当は知ってなどいないのだ、人間が必ず死ぬ習わしだということを。「新古今集」哀傷。無常に対して、世間の人々が無自覚であることをついた歌です。)
エピソード
●自歌合(じかあわせ)に判を加えた83番・藤原俊成は、慈円の歌を「心おほきにこも」った歌と評しています。99番・後鳥羽院は「後鳥羽院御口伝」において、「大僧正おほやうは西行がふりなり、すぐれたる歌いづれの上手にも劣らず、むねと珍らしき様(よう)を好まれき」として秀歌を多く挙げています。理の内容も表現も素材も新しく珍しい様を詠むと評価しています。また、短時間に大量の歌を詠む即詠を得意としました。家集「拾玉(しゅうぎょく)集」には約四千首の歌があります。
●後鳥羽院と慈円との仲も親密で、多くの贈答歌をやりとりしています。甥の91番・藤原良経が急死したことにショックを受けていた慈円に慰めの歌を贈っています。また、慈円も後鳥羽院の愛した更衣尾張が亡くなった際に追慕の歌を贈っています。承久の乱(1221)で、後鳥羽院が隠岐に配流となると、深く心を痛めました。
●86番・西行法師と慈円は40歳近い年齢の隔たりがありますが、贈答歌が残っており、直接親交を持っていました。文治4年(1188)の西行勧進の「二見浦百首」に慈円が歌を寄せています。「沙石集」によると、西行が慈円に向かって、天台の真言を学ぶには「先ず、和歌を御稽古(おけいこ)さぶらへ。歌御心得なくは、真言の大事は、御心得さぶらはじ」とさとした話が記されています。2人の宗教界での身分には大きな差がありますが、西行への敬意は深かったようです。
●高僧の身でありながら、歌を詠むことに執着していることを、奈良の一条院の門主にとがめられた時の逸話が「百人一首一夕話(ひとよがたり)」にあります。門主が国のありようにも関わるほどの立場をおろそかにしているのではないかと、慈円に意見したことに歌で答えています。「みな人の 一つの癖は あるぞとよ 我にはゆるせ 敷島の道」 同じような逸話が「正徹物語」にもあります。兄の信円に、和歌に熱中しすぎるのをとがめられたとして、「みな人に 一つのくせは あるぞとよ これをば許せ 敷島の道」と詠んでいます。
●慈円は日本で初めての歴史書「愚管抄(ぐかんしょう)」(全7巻)を書きました。歴代天皇や摂関などの歴史と、仏教的な考えから世の中の移り変わりを説明しています。いくつもの戦乱を経験し、貴族のおとろえや武士の勢いを間近に見ながら、歴史物語として完成させたのでした。
●円山公園の山頂にある安養寺には、この地を愛した慈円が、比叡山から勧請した弁天堂が残っています。 ●円山の名は、安養寺の山号「慈円山」から名付けられ、円山公園の名前にもなっています。慈円が「わが恋は 松を時雨の 染めかねて 真葛ヶ原(まくずがはら)に 風さわぐなり」と詠んでから、和歌の名所となりました。平安時代、この一帯は真葛や薄(すすき)が生い茂る野原でした。 ●後鳥羽院と慈円との仲も親密で、多くの贈答歌をやりとりしています。承久の乱(1221)で、後鳥羽院が隠岐に配流となると、深く心を痛めました。大阪・四天王寺西門(極楽門)の柱に、慈円の和歌が紹介されています。
●37歳の時に天台宗の座主(比叡山延暦寺の僧侶の最高職)となり、47歳で大僧正に任じられましたが、わずか数か月で辞し、前大僧正と呼ばれました。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「おほけなく」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。