プロフィール 伊勢大輔

伊勢大輔
(いせのたいふ。990年~1070年頃)

  祖父は49番・大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)、父は正三位神祇伯・大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)で、代々歌詠みの家系として知られていました。父が伊勢神宮の祭主、神祇大副(じんぎのたいふ:大輔)の職にあったところから伊勢大輔と呼ばれました。美貌の人で、上東門院彰子が中宮として敦成親王を生んだ50日目の祝宴には、選びぬかれた若女房の一人として配膳に奉仕しています。57番・紫式部とともに、2年後に出仕した56番・和泉式部とも親しい間柄でした。名高い歌人として認め合っていた2人は、初対面の夜、寝ずに語り明かしたと伝えられています。彰子が開いた「上東門院菊合(じょうとうもんいんきくあわせ)」など、多くの歌合で高い評価を得ました。自分で歌合を主催したこともあり、多くの歌人と交友しています。勅撰集に51首も選ばれ、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人です。後年は、白河天皇の育児の任にあたったようです。夫は中宮定子のいとこ・高階成順(たかしなのなりのぶ)で、2男3女に恵まれました。「古本説話集」によると、成順は「いみじうやさしかりける人」だと記されています。誠実で人々からの信頼も深かった夫と、幸せな結婚生活を送りつつ、出産後も仕事を続けました。康資王母(やすすけおうのはは)など3人の娘はいずれもが勅撰歌人となっています。やがて夫が出家し、大輔自身も夫の一周忌の頃(1060年以後)に出家して山里に移り住みました。老いてもその才気は衰えず、70歳(または80歳)という高齢で亡くなったようです。
代表的な和歌
●「聞きつとも 聞かずともなく 時鳥(ほととぎす) 心まどはす さ夜のひと声」(聞いたとも聞かないともはっきりせず、時鳥よ、人の心を惑わせる、夜の一声。「後拾遺集」)
●「さ夜ふかく 旅の空にて 啼く雁は おのが羽風や 夜寒なるらむ」(夜も更けた頃、旅の空で啼く雁は、自身の羽ばたく風のせいで夜寒を感じているのだろうか。「後拾遺集」)
●「わかれにし その日ばかりは めぐりきて いきもかへらぬ 人ぞ恋しき」(死に別れた日だけは巡って来るのに、亡き人は生き返らない、あの人が恋しくてならない。「後拾遺集」伊勢大輔の夫、高階成順の一周忌の法要ののちに詠んだ哀傷歌です。)
●「うれしさは 忘れやはする 忍ぶ草 しのぶるものを 秋の夕暮」(あなたがたびたび見舞って下さったうれしさは忘れたりするものですか。軒に生える忍ぶ草ではありませんが、あなたをなつかしく思い慕っています。この秋の夕暮れに。「新古今集」秋頃、病気をしていたのが快方に向かい、たびたび見舞いに訪れてくれた大納言源経信に贈った歌です。)
返歌「秋風の 音せざりせば 白露の 軒のしのぶに かからましやは」(秋風が訪れなければ軒の忍ぶ草に白露がかかることもないように、私がお見舞をしなければあなたからすばらしいお歌を贈られることもなかったでしょう。「新古今集」有名な先輩歌人である伊勢大輔から歌を贈られたことを源経信は喜んでいます。)

●「君みれば ちりも曇らで 万代(よろづよ)の 齢(よはい)をのみも ますかがみかな」(幼い宮を見ればかがやくばかりで、その齢は万代までも「ます鏡」です。「古本説話集」には、白河院がまだ一の宮と呼ばれていた皇子の頃参上し、鏡を賜った時の歌をのせています。幼い宮が「鏡をみよ」と言った時の歌です。)
エピソード
●「紫式部日記」には、敦成親王の誕生5日目の夜、産養(うぶやしない:祝宴)の様子が記されています。中宮彰子にお膳をさしあげる8人の若い女房について、「かたちなどをかしき若人(わこうど)のかぎりにて、さしむかひつつゐわたりたりしは、いと見るかひこそはべりしか」(いずれも容貌などの美しい若女房ばかりで、向かい合ってすわって並んでいる様子は、本当に見がいのあるものでした)と表現されています。この中の一人に選ばれたのが、伊勢大輔でした。
●ある時、父の輔親が大輔に扇を与えたら、大輔の妹がうらやましく思って歌を詠みました。その返歌として「ひとりには 塵(ちり)をも据(す)ゑじ ひとりをば 風にもあてじと 思ふなるべし」(「続詩花集」)とあるように、父がいかにこの姉妹を大切に育てたかがわかります。
●夫の高階成順が琵琶湖の近くにある石山寺に長くこもって音信がなかった時には、3つの掛詞を使った恋文を贈っています。「みるめこそ 近江の海に かたからめ 吹きだにかよへ 志賀の浦風」(琵琶湖のことだから海松(みる)を採るのは難しいでしょうが、せめて志賀の浦を吹く風だけでも都に通してください。)逢うのは難しいでしょうが、せめてお便りだけでもくださいの意味です。みるめ=「海松布(みるめ)」と「見る目」、あふみ=「近江」と「逢ふ身」、かた=「潟」と「難」が掛詞です。
●大中臣家は、曾祖父・祖父・父とも歌人として知られ、みな伊勢神宮の祭主を務めました。伊勢神宮の内宮の写真です。 ●「いにしへの」の歌碑は各地にあります。西九条緑地(奈良市西九条町)、奈良県庁横駐車場(奈良市登大路町)には八重桜古蹟の碑と案内板があります。
●三重県四日市市にある昭和幸福村公園の歌碑には伊勢大輔の姿が描かれています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「いにしへの」の歌碑は、常寂光寺と二尊院の間の長神の杜公園にあります。