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在原業平
(ありわらのなりひら。825年~880年)
平城(へいぜい)天皇の皇子・阿保(あぼ)親王の五男で、16番・中納言行平(ゆきひら)の異母弟です。右近衛権中将(うこんえごんのちゅうじょう)にまで出世し、「在五(ざいごの)中将」や「在中将」と呼ばれました。六歌仙、三十六歌仙の一人です。業平の歌は情熱的で、掛詞・縁語などを巧みな使用した美しい歌を多く詠んでいます。平安時代を代表する美男子で(上品で美しいと記されています)、性格は自由奔放、恋多き人でした。「伊勢物語」の主人公である昔男のモデルとされ、「今昔物語」や「大和物語」にも多くの伝承があります。この「ちはやぶる」の歌を捧げた天皇の女御・二条の后(藤原高子:たかいこ)とも、彼女が入内する前に恋愛関係にありましたが、高子の兄、基経に知られ仲を裂かれます。業平は元恋人の前で、「ちはやぶる」の屏風歌を披露したというわけです。恋と歌に情熱を傾けた業平ですが、元慶(がんぎょう)4年5月28日に56歳で亡くなりました。その臨終の床で詠んだ歌が残っています。「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」(人間誰でも行かねばならない死への道のことは、前々から聞いて知っていたけれど、昨日今日というほどに差し迫ったものとは思ってもみなかったのに。「古今集」「伊勢物語」125段)です。 |
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●「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」(もし世の中にまったく桜がなかったなら、春の人の心はどんなにかのどかであろうに。「古今集」)
●「桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに」(桜の花よ、一面に散り乱れてあたりを曇らせておくれ。老いがやって来るという道が花びらでまぎれて見えなくなるように。「古今集」堀河の太政大臣の40歳を祝う会で詠まれた歌です。)
●「花にあかぬ 嘆きはいつも せしかども 今日のこよひに 似る時はなし」(桜の花をいくら見ても見飽きず、長いため息をつく、そんな経験は春ごとにして来たけれども、今宵ほどその嘆息を深くした時はない。「新古今集」)
●「濡れつつぞ しひて折りつる 年の内に 春は幾日(いくか)も あらじと思へば」(雨に濡れながら無理をして花を折りました、春はあといく日もないと思うので。「古今集」の詞書に雨の降る日に藤の花を折って人に贈った時の歌です。)
●「起きもせず 寝もせで夜を 明かしては 春の物とて ながめ暮らしつ」(起きるわけでもなく、寝るわけでもなく、夜を明かしては、長雨を春という季節のものとして眺めて過ごしてしまいました。「古今集」あなたのことばかり思いながら、この物憂い春の日々を送り迎えていますという意味です。)
●「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」(月は昔の月ではないのだろうか、春は昔と同じ春ではないのだろうか、私一人だけが去年のままの身で。「古今集」「伊勢物語」入内する高子と引き離されてから一年後の春、彼女が住んでいた場所で月を眺めて詠んだ歌です。)
●「唐衣 着つつなれにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」(私には馴れ親しんできた妻が都にいるので、はるばるとやってきた旅の悲しさが、しみじみと感じられることだよ。「古今集」)
●「名にしおはば いざ言問はん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」(「都」というその名を持つのであれば、さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋しく思う人は無事でいるかどうかと。「古今集」「伊勢物語」の東下りの時の歌です。)
●「秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも 逢うはで来し夜ぞ ひちまさりける」(秋の野に笹を分けて朝帰りをし、笹の露でぬれた袖より、あなたにお逢いできずに寂しく帰ってきた夜の方が、袖がいっそう濡れまさることだよ。「古今集」)
●「大原や 小塩(をしお)の山も 今日こそは 神代のことも 思ひ出づらめ」(大原の小塩の山も、今日こそは、お后様のご参詣を見て神代のことを思い出していることでしょう。「古今集」春宮を生んだ高子は、藤原氏の祖神を祀る大原野神社に詣でました。この時業平は近衛権中将として御幸の供をして、高子自身からひとえの衣を賜った時に詠んだ歌です。) |
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●業平が亡くなって25年後に「古今集」が選ばれるのですが、35番・紀貫之は「古今集」仮名序で「在原業平は、その心余りて、詞(ことば)たらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし。」(情熱がありすぎて表現に不十分の点があります。しぼんだ花の色つやがすでに失せて、なお芳香が残っているといった感じです。)と評していますが、業平の歌は30首採択されました。
●歴史書「日本三代実録」には、業平のことを「体貌刊閑麗(たいぼうかんれい)、放縦拘(ほうしょうかかわ)ラズ、略才学無(ほぼさいがくな)ク、善(よ)ク倭歌(わか)ヲ作ル」と述べています。容姿は美しくて性格は自由奔放、正式な学問には欠けるが、和歌を上手に作るという意味です。彼の名歌をもとにして、伝えられた逸話や作り話も加えて「伊勢物語」という歌物語が生まれました。平安時時代を通して愛読され広まるうちに現在に伝わる形に変改していったようです。「伊勢物語」第6段「芥河(あくたがわ)」は、業平と藤原高子がモデルだといわれています。男が身分の高い女を盗み出して倉に隠しますが、激しい雷鳴の中、鬼が女を一口に食ってしまいます。実は女の兄の堀河大臣基経(ほりかわのおとどもとつね)らに連れ戻されたのを鬼だと言ったのだという話です。これは創作であるという説もありますが、業平の昇進が遅かったのはこの一件が原因だともいわれています。二条の后との恋については、同じ「伊勢物語」の3段「ひじき藻(も)」、4段「西の対(たい)」、5段「関守(せきもり)」に記されています。この後、男は京にいづらくなって東国の方に住める国を求めてさまよっていきますが、実際に東国に下ったのかは史実として確認できません。
●藤原高子には春の訪れを詠んだ美しい歌があります。「雪のうちに 春は来にけり 鶯(うぐいす)の 凍(こほ)れる涙 今やとくらむ」(雪はまだ残っているのに、春がやっと来てくれた。谷間で春を待つ鶯の涙は寒さに凍っていましたが、今こそ解けることでしょう。「古今集」)
●「伊勢物語」の中心となる物語として有名なのは、伊勢斎宮との禁じられた恋です。69段「狩(かり)の使(つかひ)」は多気郡の斎宮寮、70段「あまの釣船」は大淀(おほよど)の渡し場が舞台になっています。
●定家は業平に代表される色好みの世界にあこがれていて「恋の歌を詠むには、凡骨の身を捨て、業平のふるまひけんことを思出て、我身を皆業平になして詠む」と弟子に教えました。自分は平凡な人間だが、王朝随一の色好みである17番・在原業平になりきって詠むのだというのです。 |
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●在原業平邸は京の左京三条四坊三町にありました。間之町通御池下る東側に「在原業平邸址」の石標があります。 |
●左京区吉田山の頂近くに竹中稲荷神社があります。「業平の住まいを神楽岡(かぐらおか)稲荷神社のそばに占って決めた」という古い記録があるそうです。 |
●吉田山に葬るように遺言したともいわれ、神社の奥には業平塚があります。分骨を納めた廟(びょう:死者の霊をまつる所)の跡と伝えられています。 |
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●業平が晩年を過ごした西京区大原野の小塩山十輪寺(じゅうりんじ)は、「なりひら寺」の名前で親しまれています。 |
●十輪寺の裏山には業平の墓や塩竈跡があります。14番・源融が河原院で塩焼きの風流を楽しんだのをまねて、業平も難波(大阪)から運んだ海水を焼いて塩焼きをしていたそうです。 |
●北区紫野にある雲林院は桜と紅葉の名所で「古今和歌集」以下の歌集の歌枕でした。業平が「伊勢物語」の筋を夢で語る謡曲「雲林院」の題材になった大きな寺でしたが、現在は小さな観音堂を残すのみです。 |
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