プロフィール 源重之

源重之
(みなもとのしげゆき。940年~1000年頃)

  清和天皇のひ孫で、父は源兼信(かねのぶ)ですが、伯父の参議兼忠の養子になりました。冷泉天皇に皇太子時代から仕え、帯刀先生(たちはきのせんじょう:護衛の指揮官)、即位後は左右の将監(しょうげん)から相模権守(さがみのごんのかみ)となり、国司として筑前や肥後など東北から九州までの地方官を歴任しました。晩年は、宮中で暴力事件を起こして左遷された友人の51番・藤原実方(さねかた)に同情して、ともに陸奥(みちのく:今の東北地方)に下り、実方の死後もその地にとどまり、長保2年(1000)頃に60歳余りで亡くなりました。また、奇人と言われた46番・曽禰好忠とも親交があり、河原院の和歌サロンにも出入りしていました。47番・恵慶法師とはとくに心が通じ合っていたらしく、重之が陸奥で子どもを失って悲しんでいた時に、お見舞いの歌が届いたそうです。旅好きであったと伝わり、家集「重之集」の詞書をみると、日本各地の風景を詠った歌が多く、旅の歌人と呼ぶにふさわしいでしょう。また、不遇を嘆く歌も多く、人間味を感じさせます。三十六歌仙の一人で、勅撰集に66首入首しています。
代表的な和歌
●「人の世は 露なりけりと 知りぬれば 親子の道に 心おかなむ」(「重之集」の詞書に「おのが子どもの、京にも、ゐなかにもあれば」とあり、赴任先によっては、京に子を置いてゆくこともあり、田舎へ伴う子もあったらしく、 親子のきずなを大切に思う歌です。)
●「さもこそは 人におとれる 我ならめ おのが子にさへ おくれぬるかな」(いかにも人より劣った私であるよ。自分の子にさえ死に後れてしまったなあ。) 「言の葉に いひおくことも なかりけり 忍ぶ草には ねをのみぞなく」(紙に書き残しておくことなど何もありはしない。子のいなくなった古家で、亡き子を偲び、忍び泣きばかりしている。「重之集」陸奥で子を亡くした時の連作です。)
●「吉野山 峰の白雪 いつ消えて けさは霞の 立ちかはるらむ」(吉野山の嶺に積もった雪はいつのまに消えたのだろう。今朝は霞に取って代わられている。「拾遺集」)
●「筑波山(つくばやま) 端山繁山(はやましげやま) 繁(しげ)けれど 思ひ入るには さはらざりけり」(筑波山は、はしの山、木の茂った山と、山が多いが、意を決して分け入ろうと思えば何の妨げもないように、たとえ人目は多くとも、心の中で逢いたいと深く思うのは誰にも邪魔されることはない。「新古今集」百首歌の「恋十首」の中の作です。)
●「秋風は 昔の人に あらねども 吹きくる宵は あはれとぞ思ふ」(秋風は昔の人でもないのに、夜、独りでいる部屋に吹き入ってくる時は、懐かしく思われるのだ。「玉葉集」)
エピソード
●重之の子どもが陸奥国で殺害されるという事件がありました。「嘆きても 言ひても今は かひなきに はちすのうへの たまとだになれ」など、悲しみにくれる5首の連作が「重之集」に残されています。重之の心を思い、47番・恵慶法師が贈った歌が残っています。「ちぎりあらば この世にまたは 生(む)まるとも 面(おも)変はりして 身も忘れなん」 なお、49番・大中臣能宣や安法法師も、重之の子どもの死に際して、弔(とむら)いの歌を贈っています。
●「大和物語」の58段「黒塚」には、歌友である40番・平兼盛がみちのくに来たとき、重之の美しい娘たちに歌を贈って、京に連れていきたいと申し出た話が記されています。安達が原の黒塚には鬼がいるという伝説をふまえて、奥深く住んでいる娘たちを鬼になぞらえてさそったのです。しかし、重之は「まだ年齢的に早いので、そのうち年ごろになりましたら」と断っています。
●全国各地に歌碑が残っています。陸奥には多く、塩釜市、二本松市安達が原をはじめ、松島の雄島を詠んだ歌碑「松島や をじまの磯に あさりせし 海人の袖こそ かくはぬれしか」(雄島の漁師の袖は、このように濡れていたなあ、私は恋の涙で袖を濡らしているけれど)があります。 ●美ヶ原温泉(松本市里山辺)の薬師堂の入口に「いづる湯の わくに懸れる白糸は くる人絶えぬ ものにぞありける」と温泉のにぎわいを詠んだ「後拾遺和歌集」の歌碑があります。 
●伊丹市庁舎西出入口横に「芦の葉に かくれてすみし 我がやどの こやもあらはに 冬はきにけり」(あしの葉にかくれるようにして住んでいる私の家にもはっきりと冬はやって来てたのだなあ。兵庫県伊丹市昆陽1丁目) ●日向国の国司であった時、この地の老松を見て詠んだ歌「しら浪の よりくる糸を をにすげて 風にしらぶる ことひきの松」(宮崎県児湯郡高鍋町) ●吉野山を詠んだ歌もあります。また、「黒塚」伝説にそって、重之の美しい娘たちに歌を詠んだ40番・兼盛の話も有名です。