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安倍仲麿
(あべのなかまろ。698年~770年)
「阿倍」とも書きます。717年、16歳の頃、遣唐留学生に選ばれ、吉備真備(きびのまきび)、玄昉(げんぼう)らとともに中国(唐)の都・長安へ渡りました。その当時、世界の最先端にあった文化を学んで帰国すれば朝廷の中心となる重要な地位に就くことが約束されていました。ところが、彼の秀才ぶりが次第に周囲に認められ、難関の科挙(かきょ:中国の高級国家公務員資格の認定試験制度)に合格、玄宗(げんそう)皇帝に気に入られたため、唐にとどまって活躍しました。中国名「朝衡(ちょうこう)」として36年仕えた天平勝宝5年(753年)、53歳となった仲麿は、その時遣唐使として来ていた藤原清河(きよかわ)とともに帰国することを決意します。50歳代といえば老人の仲間入りという時代、苦しい船旅に耐えられるうちに懐かしい故郷に帰ろうと思ったのでしょう。玄宗皇帝に帰国を許され、明州(みんしゅう)の浜で唐の友人たちによる送別会が開かれました。しかし、暴風で船が難破し、安南(あんなん:ベトナム)の海岸に漂着します。仲麿は苦労して長安に戻りましたが、安史(あんし)の乱による戦乱のため、日本への帰国をあきらめるほかありませんでした。最後には安南(あなん:ベトナム)の節度使(地方の軍司令官兼行政長官)に任命されています。結局、長安で72歳で亡くなりました。仲麿の死を日本に知らせたのは、779年3月に来日した唐使でした。日本に残され、生活に困っていた家族に補助金が出ています。文芸面では唐の大詩人である李白(りはく)や王維(おうい)とも親交があり、遭難死のうわさを耳にした李白が仲麿の死を嘆いて作った詩が残っています。 |
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●現在、西安市の興慶宮(こうけいきゅう)には、仲麿の記念碑が立ち、送別の宴(えん)で仲麿が詠んだ次の漢詩が刻まれています。
翹首望東天 首を翹(あ)げて東天を望めば
神馳奈良邊 神(こころ)は馳(は)す奈良の辺(へ)
三笠山頂上 三笠山頂の上
想又皎月円 想ふまた皎月(こうげつ)円(まどか)なるを
●「全唐詩」は、仲麿が帰国時に作った五言排律「銜命還国作」を収録しています。この詩は、王維が朝衡(ちょうこう:仲麿)に贈った送別の詩「送秘書晁監還日本國」へのお返しに作ったものと言われています。
銜命將辭國(皇帝陛下の命令を受けて今から国を出ようとしている)
非才忝侍臣(才はなかったが、ありがたく陛下にお仕えしてきた)
天中戀明主(陛下は天下から賢明な君主として慕われ)
海外憶慈親(海外からは、慈悲深い親のようにおもわれている)
伏奏違金闕(陛下に伏して奏上して、宮殿を辞するお許しを得た)
騑驂去玉津(馬車に乗り、立派な港から旅立つ)
蓬萊郷路遠(日本へ帰る道は遠いが)
若木故園鄰(未熟な若木のような日本は、立派な園である唐の隣にある)
西望懷恩日(西を望んで、陛下のご恩を懐かしむ日があり)
東歸感義辰(東の日本に帰って、義に感謝する時もあろう)
平生一寶劍(私が平素から大切にしていた一振りの宝剣を)
留贈結交人(親しく交わった友に贈ろう) |
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●仲麻呂が難船して死んだといううわさを聞いて李白が作った七言絶句が残っています。哭とは、人の死を悼んで泣くという意味です。
「晁卿衡(ちょうけいこう。仲麿のこと)を哭す」
日本晁卿辞帝都 日本の晁卿帝都を辞し
征帆一片繞蓬壺 征帆一片蓬壺を繞る
明月不帰沈碧海 明月帰らず碧海に沈み
白雲愁色満蒼梧 白雲愁色蒼梧に満つ
(日本の晁卿は、長安の都を辞した。友が乗った船の帆影は、仙人が住むという蓬壺の島をめぐって行った。しかし、明月のように輝いていた君は帰らず、碧海に沈んだという。白い雲は悲しみの色をたたえて、蒼梧(南東海岸)の空に満ちている。)
●73番・大江匡房による談話集「江談抄(ごうだんしょう)」の「吉備入唐の間の事」には、唐人の嫉妬(しっと)により塔に閉じ込められて餓死(がし)した仲麿が、鬼となって吉備真備(きびのまきび)を助けたという話があります。びっくりするような説話ですが、仲麿が日本に残した子孫の安否を気づかっている点は現実味を感じさせます。 |
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●大阪湾の入り江近くにあった住吉大社は、海の神として万葉時代から信仰を集めていました。遣唐使派遣の時には、必ず海上の無事を祈ったそうです。境内には「遣唐使進発の地」の記念碑があります。 |
●「平城宮跡歴史公園」朱雀門ひろばが、2018年3月にオープンしました。天平うまし館には遣唐使船解説コーナーに仲麻呂にかかわる展示があり、復原遣唐使船に乗船できるようになりました。 |
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●中国西安(せいあん)市の興慶(こうけい)公園には、1979年、奈良市と西安市の友好姉妹都市提携を記念して作られた阿部仲麻呂記念碑があります。西安の地は昔、唐の都「長安」として栄え、「平安京」のモデルとなりました。玄宗皇帝が政務を行った興慶宮の跡地です。 |
●天平みつき館のお土産には、遣唐使船に乗るキャラクター「しかまろくん」クリアーファイルがあります。また、絵本「天の原ふりさけみれば」は、日本と中国を結んだ遣唐使仲麻呂の生涯が描かれています。(文と絵:すずき大和 河出書房新社) |
●関西ではどら焼きを「三笠山」と呼びます。側面から見た菓子の形が奈良県の三笠山に似ているからとか、正面の形が三笠山から出る満月に似ているためとか言われています。 |
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