プロフィール 紀貫之

紀貫之
(きのつらゆき。872年頃~945年)

  平安時代最大の歌人で、大内記(だいないき)、土佐守(とさのかみ)などを歴任し、従五位上・木工権頭(もくのごんのかみ:宮殿の建築・修理を行う木工寮の長官)になりました。33番・紀友則は、20歳ほど年下のいとこです。生きているうちから歌聖とされ、和歌の歴史に大きな影響を与えました。皇族をはじめ上流貴族から屏風歌の注文がどっと押し寄せたといいます。「古今集」の中心的撰者であり、三十六歌仙の一人です。勅撰集には443首選ばれており、97番・藤原定家に次いで第2位です。「古今集」の歌論として有名なひらがなの序文「仮名序(かなじょ)」を書き、6人の歌人を批評しました。その歌人を六歌仙と呼びます。晩年に「新選和歌集」を完成させました。また、我が国最初の日記文学「土佐日記」の作者としても有名です。「土佐日記」は、土佐守の任を終えて都に帰るときの旅の様子を、一人の女性になりきってひらがなで書いた日記です。漢文で書く男性のものだった日記を、女房に開放し、平安時代の女性文学が花開くもとを作ったといえます。華々しい活躍とは反対に、晩年の寂しさを感じさせる作品も多く、「土佐日記」には任地で亡くしたわが子への思いがあふれています。「みやこへと 思ふをものの 悲しきは 帰らぬ人の あればなりかな」(なつかしい都へ帰るのだと思うのに、何かしら悲しいのは、生きて一緒に帰れない我が子があるからなのです。)という歌は、「今昔物語」「宇治拾遺物語」でも取り上げられています。「土佐日記」の最後には「忘れ難く、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。」(忘れられない、心残りなことがたくさんあるけれど、とても書ききれない。)と記しています。
代表的な和歌
●「袖(そで)ひちて むすびし水の 凍れるを 春立つけふの 風や解くらむ」(夏に袖がぬれて手にすくった水が、冬の間に凍ったのを、春になった今日の風が解かしているだろうか。「古今集」)
●「霞立ち 木の芽もはるの 雪降れば 花なき里も 花ぞ散りける」(霞がたなびき、木々の芽も張るという、春が訪れ、淡雪が花の咲かないこの里にも、花を散らしている。「古今集」)
●「桜花 散りぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞ立ちける」(風が吹きつけて桜の花が散ったあとには、水もない空に波が立っていることだよ。「古今集」落花を波にたとえています。)
●「桜散る 木の下風は 寒からで 空に知られぬ 雪ぞふりける」(桜の花が散っている木の下を吹く風はいっこうに寒くないのに、空が知らない雪(花吹雪)が降ってくることだ。「拾遺集」春)
●「年ごとに 紅葉ば流す 竜田川 みなとや秋の とまりなるらむ」(毎年紅葉の葉を流している竜田川の行き着く先、それが秋の終着点なのでしょうか。「古今集」)
●「夕月夜(ゆふづくよ) 小倉の山に 鳴く鹿の 声のうちにや 秋はくるらむ」(ほの暗い小倉の山に鳴く鹿、その声の内に秋は暮れてゆくのだろうか。「古今集」)
●「むすぶ手の 雫(しずく)に濁る 山の井の あかでも人に 別れぬるかな」(すくいあげた手のひらからしたたり落ちる雫に濁ってしまう湧水、その少しの湧水では満足できないように、私もあの人に出会って満足できないうちに別れてしまうことだ。「古今集」)
●「吉野川 岩波高く 行く水の はやくぞ人の 思ひそめてし」(岩打つ波も高く流れてゆく吉野川の水のように、たちまち私もあの人に思いを寄せるようになってしまったことだよ。「古今集」)
●「初雁(はつかり)の なきこそわたれ 世の中の 人の心の 秋し憂(う)ければ」(初雁が鳴いて空を飛ぶのは秋が悲しいからなのだが、私が泣き暮らすのは世の中の人の心に飽きられたことを悲しむからなのだ。「古今集」恋人に飽きられたことを「人の心の秋」と表現しています。)
●「雪ふれば 冬ごもりせる 草も木も 春に知られぬ 花ぞ咲ける」(雪が降って一面の銀世界になった。寒さのために冬眠をしている草も木も、春には見ることのできない花を咲かせている。「古今集」枝や葉に積もった雪を花に見立てています。)
●「手に結ぶ 水に宿れる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ」(手にすくった水に映っている月の光のように、あるのかないのか、定かでない、はかない生であったことよ。「拾遺集」死の直前に詠んだ歌です。自分の生涯が消え入りそうにほどはかないものであったという思いがこめられています。貫之が病を得て心細く思っていた時、親交のあった源公忠(きんただ:光孝天皇の孫)に贈った歌です。公忠が返歌をしようとする暇もなく、貫之は亡くなったといいます。)
エピソード
●貫之は「源氏物語」の桐壷の巻に「伊勢 貫之に詠ませたまへる」と、伊勢とともに実名で登場します。平安時代、貫之は日本の白楽天になぞらえて尊敬されていました。和歌の腕前が認められていた逸話は「大鏡」にも記されています。天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔(もろすけ)が、正月用の魚袋(ぎょたい:束帯姿のとき、右腰に下げる飾り。魚形の模様がある。)を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するため、わざわざ貫之の家を訪れたというのです。名誉に思った貫之は、2人をたたえる和歌を詠みました。「吹く風に こほりとけたる 池の魚 千代(ちよ)まで松の かげにかくれむ」(新年になって吹く春風のため、氷のとけた池にうれしそうに泳ぎまわる魚は、いつまでも松の木陰に隠れて、そのおかげをこうむることでしょう。「貫之集」第三句の「池の魚」は師輔を、「松」は父・忠平をさしています。)「袋草紙」などには、貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっています。
●貫之は、「古今集仮名序」の冒頭部分で和歌について次のように述べています。「やまとうたは、人の心を種(たね)にたとえますと、それから生じて口に出て無数の葉(は)になったものです。この世の中に生きている人々は、さまざまな出来事に関わっていますので、心に思うことを、見るもの、聞くものに託して言い表したものが歌です。花の間に鳴く鶯(うぐいす)、清流に住む河鹿(かじか:鳴き声の美しい蛙)の声を聞きますと、生きているすべてのものの、どれが歌を詠まないと申せましょうか。力ひとつ入れないで天地の神々の心を動かし、目に見えないもろもろの精霊たちをしみじみとさせ、男女の仲を親しいものとし、勇猛(ゆうもの)な武人の心さえも和らげるのが歌です。」
●ひらがなを愛した人です。「古今集」巻10の物名(もののな)は、物の名前を歌の中に隠して詠む言葉遊びの部です。漢字にはないひらがなの魅力を取り込みました。例えば、「あしひきの 山辺にをれば 白雲の いかにせよとか はるる時なき」(山のほとりに閑居して白雲を眺めていると、雲はいっこうに晴れそうもないが、いったい私にどうしろというのだろうか。)の歌には、「淀川(よどかは)」という言葉が隠されています。「今いくか 春しなければ 鶯(うぐいす)も ものはながめて 思ふべらなり」(あといく日間、春という日があるのではないので、梢の鶯もなんとなく悲しそうに思いにふけっているようだ。)には「すももの花」が隠されています。また、作者未詳の歌を「よみびとしらず」とひらがなに変換したのは、貫之の発明です。
●「古今集」や「土佐日記」の中で17番・在原業平を追慕する姿勢がみられ、「伊勢物語」の成立に関与した可能性もあるといわれています。「土佐日記」では船の中から渚(なぎさ)の院を眺めて業平の「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」(もし世の中にまったく桜がなかったなら、春の人の心はどんなにかのどかであろうに。)をあげています。
●比叡山延暦寺東塔から坂本側に少し下がった裳立山(もたてやま)に貫之の墓が残っています。(叡山鉄道「延暦寺駅」をケーブルで1分ほど下った「もたて山」駅から南に約300m) ●貫之が、土佐の国司の任期が終わり京都に帰る途中、土佐泊に寄港しました。その時に詠んだ歌「としころを 住みし所の なにしおえ はきよる浪をも あわれとぞ見る」の歌碑が鳴門市の潮明寺にあります。
●室戸阿南海岸国定公園の西入口に歌碑「まことにて 名に聞く所 羽根ならば 飛ぶがごとくに 都へもがな」があります。土佐日記によると、承平5年(935)1月10日奈半の泊りに泊し11日昼頃に羽根崎を過ぎた時詠みました。(室戸市羽根町乙。 国道55号線沿い羽根岬) ●解説板によると、貫之は比叡山からの見える琵琶湖の風景を愛し、没後はこの地に葬ってほしいと願ったたそうです。 ●逢坂の関にある関蝉丸神社下社の入り口近くには、旅人ののどの渇きをいやしたとされる関清水があります。そのそばに貫之の歌碑があります。「逢坂の 関の清水に かげみえて 今やひくらん 望月の駒」