プロフィール 参議等

参議等
(さんぎひとし。880年~951年)

 源等(みなもとのひとし)。嵯峨(さが)天皇のひ孫で、臣下に下って源氏を名のりました。中納言源希(みなもとのまれ)の子です。祖父は14番・源融のいとこにあたります。20歳の時に近江権少掾(おうみのごんのしょうじょう)に任じられ、その後、丹波守、山城守などの地方官を歴任し、左中弁、右大弁などを経て、昇進は遅く、947年に参議に就いた時には68歳でした。4年後の3月10日、72歳で亡くなりました。歌人としての経歴は詳しくわかりません。家集もなく、歌合などの活躍の記録もなく、有名ではなかったようです。「後撰集」に私生活での詠歌が4首のみ入集しています。その詞書によると、等の娘が43番・中納言敦忠の妻となり嫡男の助信を産んだが、早くに亡くなったとあります。たくさんの女性と恋をした敦忠ですが、亡くなった妻のことはいつまでも愛し続け、等とも交流を重ねていたようです。歌人として評価されたのは、97番・定家が「浅茅生の」と「東路の」の2首を歌論書「近代秀歌」「詠歌大概」に採り、「浅茅生の」を「百人一首」に選び入れて以後のことのようです。
代表的な和歌
参議等の歌は「後撰集」に4首残っているだけです。
●「東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思ひ渡るを 知る人のなき」(東国の佐野にある舟を並べた上を渡る舟橋という危ない橋をかけるように、思いをかけてずっと恋し続けていますのに、それをあの人は知ってはくれないのです。「後撰集」(橋を)架けてと(思いを)かけてが掛詞になっています。)
●「かげろふに 見しばかりにや 浜千鳥 ゆくへもしらぬ 恋にまどはむ」(陽炎のようにほのかに見たばっかりに、浜千鳥のように行方もわからない恋に私は迷うのだろうか。「後撰集」)
エピソード
●等の歌の特徴は、古歌の表現をふまえながら、新しいイメージを付け加えて感情豊かに詠むことです。97番・定家は歌論書「詠歌大概」の結びで「和歌に師匠なし。只(ただ)旧歌を以て師となす。心を古風に染め、詞を先達に習はば、誰人(たれびと)かこれを詠ぜざらんや。」(和歌を学ぶには、ほんらい師匠など不要だ。ただ古歌に学ぶのである。古歌の詠みぶりに深くひたり、古人の用いた表現を学べば、誰でも和歌を詠むことが出来るのである。)と述べています。その秀歌例として等の歌「東路の」と「浅茅生の」の2首も挙げています。
●参議等の曾祖父である嵯峨天皇は、漢詩文や書道に優れた人物でした。大覚寺は嵯峨天皇の離宮として建立されたものです。 ●大沢池は嵯峨天皇が造営した離宮「嵯峨院」の苑池の一部です。
●参議等の歌は「後撰和歌集」に4首残っているだけです。「後撰和歌集」は平安京内裏昭陽舎(梨壺)の和歌所で編纂されました。 ●撰者の5人は「梨壺の5人」と呼ばれました。恋愛歌が多いのが特徴です。