プロフィール 壬生忠見

壬生忠見
(みぶのただみ。生没年未詳、10世紀半ば)

  百人一首にも歌が残る30番・壬生忠岑(みぶのただみね)の子どもです。父とともに三十六歌仙の一人で、平安時代に栄華を誇った村上天皇の時代に高く評価され活躍した歌人です。幼い頃から歌の上手という評判で、内裏に召され、御厨子所(みずしどころ:食を整える所)で働き、後に六位・摂津大目(せっつだいさかん)になりました。数々の歌合や屏風歌が残っています。忠見の歌と40番・平兼盛の歌「しのぶれど」は、村上天皇が主催した天徳4(960)年の「天徳内裏歌合」で、「忍ぶ恋」の題で優劣を競ったものです。どちらも名歌なので、判者が困っていたところ、帝が「しのぶれど」の歌を口ずさんだことから、平兼盛の勝ちとなったというエピソードが伝えられています。負けた忠見は落胆のあまり食欲がなくなり、ついには病で亡くなってしまった、という話が「沙石集(しゃせきしゅう)」に伝わっています。ただし、家集の「忠見集」には忠見がその後も活躍していたことが記されています。これが作り話だとしても、歌合に歌人として人生をかけていたことが伝わるエピソードです。官位が低く、歌合にも粗末な装束で現れたという忠見にとってかなり悔しい結果であったと思います。しかし、身分の低さや貧しさを卑下することなく、風流に変える見事さがある歌人でした。都での生活に見切りをつけて田舎にこもったり、各地に旅もしているので、自然にふれて心澄んだ率直な歌も詠んでいます。
代表的な和歌
●「竹馬は ふみがちにして あしければ いまゆふかげに 乗りてまいらむ」(竹馬は足踏みしがちの葦毛なので、ただいま夕蔭(夕鹿毛)という馬で、夕日の影に乗って、歩いて参上します。「袋草紙」「忠見集」内裏から召された際に、馬や車に乗る身ではなく、遅れがちであった時、「竹馬に乗ってこい」との仰せがあったときの返歌です。)
●「すみよしの きしともいはで しらなみか なほうちか(と)けよ うらはなくとも」(住吉の岸(着)というではありませんか、わさわざそんなことをいわないで浦(裏)はなくとも白波の打ちかけるようにぜひ私にうちとけてください。ある人が「直垂(ひたたれ)を贈りたいが裏がなくてもいいか」と言ってくれた時の返歌です。貧しかった時のエピソードを知る内容です。)
●「小夜(さよ)ふけて 寝覚めざりせば 時鳥(ほととぎす) 人づてにこそ 聞くべかりけれ」(夜が更けて目を覚まさなかったら、時鳥の声を人づてにばかり聞いていただろうなあ。「拾遺集」起きていて直接時鳥の声を聞けて良かったという意味です。)
●「夢のごと などか夜しも 君を見む 暮るる待つまも さだめなき世に」(まるで夢のように、なぜ夜に限ってあなたを見るのだろうか。日が暮れるのを待っている間さえ、どうなるか分からないこの世にあって。「拾遺集」)
●「ことのはの 中をなくなく たづぬれば 昔の人に あひみつるかな」(残された歌の中を、父恋しさに泣きながら秀歌を探していると、亡き父に逢うことができましたよ。「新古今集」村上天皇より「後拾遺集」の資料として歌の提出を命じられ、父忠岑の残した歌稿などを集めているうちに、生前の父の姿が浮かんできたという歌です。)
エピソード

●歌合の恋歌対決で話題になった平兼盛と壬生忠見ですが、あえて負けた忠見の歌までセットで「百人一首」に選んだ例はこの2人だけです。いかに勝敗が付けにくかったかということでしょう。歌人としての評価を勅撰集入集総数から比較すると、兼盛86首、忠見37首ですが、「新古今集」のみの入集は兼盛0首、忠見5首と逆転しています。少なくとも「百人一首」撰集の時点では忠見の歌の評価が高くなっていたようです。
●「袋草紙」には貧しさを風流に変える機転があった人物として次のように説話があります。貧しいながら幼い頃より和歌の才能を人々に知られていたので、内裏よりお召しがあった。乗り物がなくて参内できないと申し上げると、竹馬に乗ってでも参内せよと仰せがあったので、「竹馬は ふみがちにして あしければ いまゆふかげに 乗りてまいらむ」(竹馬は足踏みしがちの葦毛なので、ただいま夕蔭(夕鹿毛)という馬で、夕日の影に乗って、歩いて参上します。)と歌を詠んで奉ったそうです。江戸時代頃の忠見の画像は、子どもが竹馬にまたがっているところを描いたものが多かったといいます。
●「天徳内裏歌合」を催した村上天皇は、詩歌に優れ和歌所を設置しました。延暦寺・西塔北谷にある瑠璃堂は村上天皇の勅命により創建されたものです。 ●壬生忠見の歌碑「ひとたびも まだ見ぬ道に まどわぬは 雨のあしこそ 指南(しるべ)なりけれ」が舞台となっているあし山の麓に建てられています。「つくしにくだるに、あきの国、あしの山を、雨の降るに越ゆるとて」とあります。これは下級官僚の忠見が官命により筑紫へ行く途中の歌です。
●「竹馬は」の歌の説話から、江戸時代の忠見の画像は、子どもが竹馬にまたがっているところを描いたものが多かったといいます。 ●壬生忠見は、長く摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県の一部)に住み、その後宮廷に出仕するようになりました。 ●三重県四日市市昭和幸福村公園にある歌碑には忠見の姿が描かれています。