プロフィール 清少納言

清少納言
(せいしょうなごん。966年頃~1025年頃)

  36番・清原深養父(きよはらのふかやぶ)のひ孫で、42番・清原元輔(もとすけ)の娘です。本名は諾子(なぎこ)とも推定されています。漢学者の家系で、子供の頃から天才ぶりを発揮しました。、橘則光(たちばなののりみつ)と結婚して則長(のりなが)を生みましたが、離婚後、28歳頃から一条天皇の中宮定子(ていし)に仕えました。初めは恥ずかしさで話もできない様子でしたが、宮廷生活に慣れてくると、その才能をかわいがられ、定子とは信頼関係で結ばれていきます。中国の詩文の知識が深く、機知に富んだ会話を得意としました。自然や人物の批評、宮廷生活の記録などを記した随筆「枕草子」からは、彼女の鋭い観察眼がうかがえます。「枕草子」の一部は長徳元年(995)または翌年頃に清少納言の手を離れ、宮中で広く愛読されたようです。この間、51番・藤原実方、藤原行成、55番・藤原公任などとも親交を持ちました。歌のやり取りをした藤原行成と藤原実方は、清少納言をめぐって三角関係にあったとも言われています。「枕草子」には清少納言と実方との親密な関係が語られるとともに、行成との親しさを示す逸話も書かれています。なお、彰子に仕えた57番・紫式部と比較されることが多いのですが、2人の出仕時期は重なりません。 995年、藤原道隆が死去すると、定子は父の後ろ盾がなくなり、その翌年には兄・伊周(これちか)と弟・隆家が左遷され、失意のまま出家します。しかし、一条天皇の愛情は変わらず、3人目の皇女を出産直後、わずか24歳の若さで定子は亡くなります。それを機に、清少納言は8年間で宮仕えを退き、藤原棟世(むねよ)と結婚し、息子・重通と娘・小馬命婦(こまのみょうぶ)を生みました。「赤染衛門集」には、父・元輔の荒れた旧居に住む清少納言にふれた歌があり、晩年は不遇であったといいます。家集「清少納言集」は後世、他人が編集したものです。
代表的な和歌
●「よしさらば つらきは我に ならひけり 頼めて来ぬは 誰か教へし」(よいでしょう、薄情さは私に学んだのですね。でも約束し、期待させておいて来ないという冷淡な仕打ちをあなたに教えたのは誰でしょうね。「詞花集」期待して待っていた夜、とうとう現れなかった男が、その後やって来たけれども、出て行って会わなかったので、男はどう言えばよいのかと嘆いて「貴女は心が薄情であることを教えてくれました」などと人を通じて言って来たので、それに対して詠んだ歌です。)
●「これを見よ うへはつれなき 夏草も 下はかくこそ 思ひみだるれ」(これを見て下さい。上葉は何ともない夏草も、下葉はこんなに色が変わるほど思い乱れているのです。「続千載集」ひそかに色付き始めた萩に忍ぶ恋の思いをたくした歌です。陸奥守であった藤原実方に贈ったともいわれています。)
●「雲のうへも 暮らしかねける 春の日を ところがらとも ながめつるかな」(宮中でも暮らすのに苦労しているという春の永い一日一日を、私はひなびた実家の場所ゆえと思ってぼんやり過ごしておりましたよ。「千載集」初出仕して間もない頃、二三日実家に帰っていた清少納言のもとに、定子から「あなたがいないと、どう過ごしてよいのか分からない」と言ってきたのに対する返事です。)
●「たよりある 風もや吹くと 松島に よせて久しき 海人(あま)のはし舟」(都合のよい風が吹くかと松島に寄せて、永いこと風待ちをしている海人の小舟、そのように、もしやあなたから色よい便りがあるかと、久しくお待ちしているのです。「玉葉集」)
●「うは氷(ごほり) あはにむすべる ひもなれば かざす日影に ゆるぶばかりを」(表面だけ氷った薄氷のように、ゆるく結んだ紐ですから、頭に挿頭す「日影のかずら」ではありませんが、日の光にあたって解けてしまっただけのことです。「千載集」五節の舞の時、兵衛という者の赤紐がほどけたのを、「誰かこれを結んで下さい」と言うのを聞いて、中将実方朝臣が近寄って直す時に、「山の井の清水が氷ったように冷たかったあなたが、紐が解けるように私にうちとけるとはどうしたことでしょう」と言うのを聞いて詠んだ歌です。)
●「忘らるる 身のことわりと 知りながら 思ひあへぬは 涙なりけり」(あなたにこの身が忘れられるのは当然だと自分でもよくわかっています、でも涙はそれがわからないのです。「清少納言集」詞書によると、男から何の連絡もないままで、届けようのない恋文が30枚も手もとにたまってとあります。)
エピソード
●清少納言の「枕草子」は、鴨長明「方丈記」、吉田兼好「徒然草」とともに日本3大随筆といわれています。約300段の章段からなっていて、「~ものは」で始まる文章や、宮仕えの間に見聞きしたこと、個人的な思いや歌などが書かれています。鋭い感性や才気がうかがわれ、この時代の宮廷内の暮らし、考え方を知ることができます。「枕草子」177段「宮にはじめてまゐりたるころ」には、恥ずかしがり屋の清少納言の姿が記されています。顔を見せたがらず、朝が来るとすぐに局を下がろうとあせるので、夜だけ働いて朝になると姿を隠したという伝説の神・「葛城(かづらき)の神」と、定子にからかわれました。エリートの貴公子たちと歌や会話で対等にわたりあった彼女も、出仕したばかりの頃は、かなり緊張していたようです。
●清少納言は他の女流歌人に比べて多くの歌を残していません。即詠力には人に勝るアイデアがありましたが、有名な歌人であった父の42番・元輔の名が重荷であったのか、歌会には積極的に参加しなかったことが「枕草子」104段に記されています。「元輔が 後といはるる 君しもや こよひの歌に はづれてはをる」(人もあろうに歌詠みの元輔の子と言われるあなたが、今宵の歌会に加わらないで控えているのですか)と、定子から歌を詠むように勧められると、「その人の 後といはれぬ 身なりせば こよひの歌は まづぞよままし」(大家・元輔の娘という身でなかったら、今宵の歌会には喜んで出席して、まっさきに歌を詠むことでしよう)と返し、「父に遠慮することがなければ、千首の歌であっても、こちらから口をついて出てまいることでございましょうに。」と答えています。彼女も歌に関しては劣等感があったようです。
●清少納言の父・清原元輔の旧居・月輪山荘に近い場所に、泉涌寺(せんゆうじ)が建てられました。仏殿南側に「夜をこめて」の歌碑があります。(京都市東山区泉涌寺山内町) ●清少納言は都の郊外にある深山・鞍馬寺に参詣しています。「枕草子」には鞍馬の九十九折(つづらおり)の道を「近うて遠きもの、くらまのつづらをりといふ道」と記しています。
●清少納言は一条天皇の中宮・定子のお気に入りの女房でした。枇杷殿跡は清少納言が仕えた邸跡です。京都御苑内に残っています。 ●わすが24歳で亡くなった定子は東山の鳥辺野(とりべの)に埋葬されました。清少納言は晩年出家してその近くに暮らし、定子の冥福を祈り続けたと伝えられています。 ●新京極三条にある誓願寺は清少納言や和泉式部が帰依した寺と伝えられています。