プロフィール 藤原実方朝臣

藤原実方朝臣

(ふじわらのさねかたあそん。生年未詳960年頃~998年)


  26番・貞信公・忠平のひ孫で、花山天皇・一条天皇に仕えて従四位上左近衛中将に出世しました。48番・源重之、55番・藤原公任、藤原道綱らと親交があり、52番・藤原道信とは大親友でした。和歌がうまく、中古三十六歌仙の一人です。交友歌、恋歌、贈答歌を数多く残しています。「今昔物語集」には、親友の道信の死を嘆いて詠んだ歌や、亡くなった愛児の夢を見て詠んだ歌をあげて、和歌の達人であったと記しています。家集に「実方朝臣集」があり、「拾遺集」以下の勅撰集に67首入集しています。情熱的で自由奔放なところもあり、宮廷では花形の貴公子でした。「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルともいわれています。しかし、長徳元年(995年)、華やかな都の生活から離れ、陸奥守として東北地方の任地に赴きました。熱心に歌枕の地を訪ね歩き、古歌に詠まれた松を探すなどもしていますが、わずか3年後、40歳ほどで病死しました。馬に乗り笠島道祖神の前を通った時、乗っていた馬が突然倒れ、下敷きになって亡くなったともいわれています。和歌の天才と認められた評判の貴公子が、都から遠く離れた地で亡くなったことから、数多くの説話が生まれ、昔はみんなが知っていて、実方に同情し、敬慕(けいぼ)する人は後を絶ちませんでした。東北の歌枕を訪ねた86番・西行法師が、霜枯れのすすきに紛れ見える実方の墓を人に教えられて詠んだ歌が「山家集」に残っています。また、江戸時代の松尾芭蕉も「おくのほそ道」の旅で、梅雨の悪路の中、実方の墓を探し求めた話を記しています。
代表的な和歌
●「あけがたき 二見の浦に よる浪の 袖のみ濡れて おきつ島人」(なかなか夜が明けない二見の浦に寄せる波で、袖ばかり濡らしながら起きている沖の島人、そのように私は、あなたが戸を開けてくれないので、涙で袖を濡らしながら、戸に寄りかかって起き明かしたのです。「新古今集」二見の浦は伊勢国の歌枕です。)
●「おきて見ば 袖のみ濡れて いとどしく 草葉の玉の 数やまさらむ」(寝床から起きて、朝露が置いているのを見たら、私の袖は涙でひどく濡れて、袖で分けて行く前栽の草葉の玉の数はますます増えるでしょう。「新古今集」恋人の女性が「庭の植込みに朝露が置いているのを、どうして見ないようになってしまったのか」と、後朝(きぬぎぬ)の別れの慌ただしさを恨んだのに対して応答した歌です。)
●「いかでかは 思ひありとも 知らすべ き室(むろ)の八島(やしま)の けぶりならでは」(どうやって恋の火が燃えているとあなたに知らせることが出来ましょう。常に燻ぶり続けているという室の八島の煙でなくては。「詞花集」室の八島は下野国の歌枕。この地の清水から発する蒸気に、秘めた恋心をたとえた歌です。)
●「忘れずよ また忘れずよ 瓦屋の 下たくけぶり 下むせびつつ」(忘れないよ、返す返すも忘れることなどないよ。瓦を焼く小屋の下で煙にむせぶように、ひそかな思いにむせび泣きをしながら、あなたを恋しく思っているよ。「実方中将集」の詞書によると、秘密の仲だったのにしばらく会わずにいたところ、中宮御所に実方がやってきたのを見て清少納言が「お忘れになったのね」とささやいた時、即座に物に書きつけて渡した歌です。
●「見むといひし 人ははかなく 消えにしを ひとり露けき 秋の花かな」(一緒に紅葉見物に行こうとと言い交わした人ははかなくこの世から消えてしまったので、自分一人露に濡れた秋の花を見て涙に暮れていることですよ。「後拾遺集」紅葉見物を約束した親友の藤原道信は994年に亡くなりました。)
●「とどまらむ ことは心に かなへども いかにかせまし 秋の誘ふを」(都に留まっていることは願うところですけれども、どうすればよいのでしょう、暮れてゆく秋が一緒に行こうと誘うのを。「新古今集」995年、陸奥守に任ぜられた時、友人の藤原隆家から贈られた送別の歌への返歌です。)
●「うたたねの この夜の夢の はかなきに 覚めぬやがての 命ともがな」(今夜、うたた寝の夢に、亡きわが子が現れたのに、それもはかなく消えてしまいました。それにつけても、冥途にいるわが子に早く会いたい。夢が覚めぬままにこの命が終わってほしいものです。「後拾遺集」かわいがっていた幼い子に先立たれた頃、恋しく思って寝たある夜の夢にその子が現れ、目が覚めて詠んだ歌です。)
エピソード
●「古事談」「十訓抄」「撰集抄」「今鏡」などに多くの逸話が残されています。実方と藤原行成については、「撰集抄」にあります。東山に花見に出かけた時、にわか雨が降lりはじめ、人々が逃げまどう中、実方は満開の桜の木の下で雨にぬれながら「桜狩り 雨は降り来ぬ 同じくば 濡るとも花の かげに宿らむ」(桜狩しているうち、雨は降ってきた。同じことなら、濡れるにしても、花の陰に宿ろう。)の歌を詠みます。藤原行成は「歌はおもしろし。実方は痴(おこ:愚か者、あほ)なり。」と批評したため、実方は恨みを抱いたというのです。この歌は実方作とは思えませんが、彼の風流ぶりを伝える話として有名です。
●62番・清少納言の「枕草子」には、魅力的な実方の姿が描かれています。11月の五節に、舞姫の介添え役であった年若い女房の衣服の紐(ひも)がほどけていたのを、さっと近寄って結び直し、掛詞を用いた巧みな歌を詠みかけました。「あしびきの 山井の水は 凍れるを いかなる 紐のとくるなるらむ」(冬、山井の水は凍っていはずなのに、解けるとはどんな氷面(ひも)ならぬ紐なのでしょう。)
●「源平盛衰記」には彼が出羽国の阿古耶(あこや)の松を訪ねての帰り道、名取郡の笠島道祖神の前を下馬せず通ったため神罰を受けて落馬し、その傷がもとで亡くなったと記されています。土地の者が馬から下りて再拝するように忠告し、神の由来を伝えると、実方は 「下馬に及ばず」と言い、馬を打って通りすぎたので、道祖神が怒り馬と実方をけり殺してしまったというのです。その後、京の賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出るといううわさがたちました。
●実方ゆかりの地・笠島は、86番・西行法師や芭蕉にとってあこがれの地でした。 西行は「朽ちもせぬ その名ばかりを とめておきて 枯野のすすき かたみにぞ見る」(実方中将は、陸奥に流され、ここで身は空しく朽ちてしまったが、いつまでも消えない歌人としての名だけはとどめおき、今、枯野のすすきを形見として見ることだ。「新古今集」)と詠み、芭蕉はその墓を探し求め、「笠島は いずこ五月の ぬかり道」(ゆかりの地笠島はどのあたりにあるのだろう。この五月雨のぬかるみ道では訪ねて行くこともできない。「おくのほそ道」)と詠んでいます。
●実方は陸奥守として東北地方の任地に赴きました。宮城県名取市にある実方橋を渡ると、竹林の奥に実方塚(実方の墓)があります。 ●塚を囲むように実方の「桜狩り」の歌碑と、86番・西行法師の歌碑が建っています。なお、実方に神罰を与えたという道祖神も、墓から1キロほど離れた場所に佐倍乃(さえの)神社という名で残っています。
●「今鏡」によると、実方は死後、雀になって清涼殿の台盤所(だいばんどころ)に飛んできて、宮中の米を食べ荒したという伝説があります。四条大宮にあった更雀寺(こうじゃくじ)は、「すずめ寺」と呼ばれています。 ●境内にある雀塚は、実方の霊を祀った所だという説があります。実方が雀になって戻ってきて、力尽きて死んだという話は都中のうわさになったそうです。現在は、かわいい雀の置物が塚を守っています。 ●上賀茂神社境内にある末社・橋本社は実方を祀っています。吉田兼好の「徒然草」67段に「実方の祀られたのは、御手洗の川に姿が映った所だとありますから、橋本は、流れが近いので、実方のほうかと思われます」という神職の言葉が紹介されています。