プロフィール 後徳大寺左大臣

後徳大寺左大臣
(ごとくだいじのさだいじん。1139年~1191年)

  本名は藤原実定(ふじわらのさねさだ)です。大炊御門(おおいのみかど)右大臣藤原公能(きんよし)の長男で、母は藤原俊忠の娘でした。83番・藤原俊成の甥、97番・定家のいとこです。祖父も徳大寺左大臣と称されたので、区別するため後徳大寺左大臣と呼ばれました。詩歌のほかに今様(いまよう)、神楽(かぐら)、管弦に優れる多才な人物で、大変な蔵書家でした。若い頃は順調に出世し、権大納言にまで昇りましたが、27歳で官を降りてから、平家全盛期の12年間、不遇な時期を過ごしました。復任のための活動も上手くいかず、妻子を亡くしたことが和歌に打ち込むきっかけだったそうです。幅広く様々な歌人グループと交友を持ち、歌風を絶賛されました。39歳で右大将となってからは政治家として力をふるい、作歌にあまり精力的ではなかったらしく、精進を怠ったことを後に85番・俊恵法師に批判されています。権勢欲が強いところもあったようですが、83番・藤原俊成が不遇であった時に、皇太后宮大夫(こうたいごうぐうのだいふ)の職を譲った優しい面もあります。家集「林下集」には、俊成の教えで作歌に励んでいる様子や、源頼政との親交もうかがえます。53歳の6月、病により出家し12月に2日に亡くなりました。源頼朝もその死を深く悲しんだといいます。
代表的な和歌
●「なごの海の 霞(かすみ)の間より ながむれば 入る日をあらふ 沖つ白波」(なごの海の西の空をおおっていた霞が切れ、今しも沈む赤い夕日を洗っている沖の白波よ。「新古今集」なごの海は今の大阪市住吉区の海岸です。「晩霞(ばんか)」という題詠で、鮮やかな色彩の対比が見事です。)
●「はかなさを ほかにもいはじ 桜花 咲きては散りぬ あはれ世の中」(世の中のはかなさを、桜の花のほかには、何にたとえても言うまい。咲いては散ってしまう、その姿がまさに人の世というものなのだ。ああ、世の中よ。「新古今集」)
●「いつもきく 麓(ふもと)の里と 思へども 昨日に変はる 山おろしの風」(その風の音をいつも聞いている同じ麓の里だと思うけれども、やはり夏であった昨日とはちがって聞える、山おろしの風の音だなあ。「新古今集」屏風絵で題は「秋風」。)
●「夕されば 荻(をぎ)の葉むけを 吹く風に ことぞともなく 涙おちけり」(夕暮になると、荻の葉を一方になびかして吹く秋風で、私も何ということもなく、涙が落ちてしまった。「新古今集」)
●「憂(う)き人の 月はなにぞの ゆかりぞと 思ひながらも うちながめつつ」(月は、つれないあの人と何の関係があるというのだ。そう思いながらも、何度も夜空を眺めずにはいられないのだ。「新古今集」)
●「覚めてのち 夢なりけりと 思ふにも 逢ふは名残の 惜(を)しくやはあらぬ」(目が覚めて、そのあと「夢だったのだ」と思うにつけても、恋慕う人に逢ったことに変わりはないのだ。名残惜しくないことがあろうか。「新古今集」の詞書によると、言いかわしていた女が夢にみえたので詠んだ歌です。)
エピソード
●39歳で還任(かんにん:再び元の官職に任じられる)してから、実定の歌壇での評価は、2つに分かれます。風雅の人としての面と、俗人としての面です。「平家物語」の「徳大寺厳島詣」では、筆頭の大納言であった実定が中納言平宗盛に大将の官職を越された時、家来に勧められて厳島神社への参詣をして左大将になった話、「月見」の巻では、福原遷都の折、旧都平安京の荒廃を嘆き、月を愛でる今様を即興で歌った話は有名です。「徒然草」にも逸話を残しています。邸の正殿に縄を張って、鳶(とび)をとまらせないようにしたのを、86番・西行法師が見て「鳶がとまっていたからといって、何の不都合があろうか。この大臣殿の御心は、この程度でいらしたのだ。」とがっかりして、その後は参上しなかったという話です。
●鴨長明の「無名抄」に85番・俊恵法師の言葉が紹介されています。後大徳寺大臣は比べるもののない歌の名手ですが、根拠のないでたらめな表現を平気で自慢げにやっていて、今は他の歌人より立ち後れてしまい、秀歌が詠めなくなったというのです。
●「林下集」に源頼政との親密な贈答歌が残っています。源頼政から菊の花を分けてもらって育て、3年目の花が見事に咲いたのを贈って歌を詠み合っています。また頼政が初めて殿上を許された時や三位に昇進した時に歌を贈っています。
●「古今著聞集」には、実定が春日神社と厳島神社の両社に昇任祈願の参詣をして、ついに願いを果たしたことが記されています。 ●住吉社歌合に秀歌を詠んだことに感動した住吉明神が、難破しそうになった実定の船を、翁に姿を変えて助けた話もあります。住吉は和歌の祭神、航海の守護神でもありました。住吉大社には古代の船をかたどった歌碑があります。
●39歳で右大将となってからは政治家として力をふるい、作歌にあまり熱心ではなかったらしく、精進を怠ったことを85番・俊恵法師に批判されています。 ●実定の祖父・実能が営んだ邸が三条通りにある三条南殿跡です。また、実能の別荘を室町時代に寺としたのが石庭で有名な龍安寺です。