プロフィール 相模

相模
(さがみ。995か998年頃~1061年以後没)

  平安中期に財力と武勇を誇った武将、源頼光(よりみつ)の娘、もしくは養女と言われます。相模守の大江公資(きみより・きんより)の妻となり、任国の相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)へ一緒に行ったので、相模と呼ばれるようになりました。歌論集「八雲御抄(やくもみしょう)」では59番・赤染衛門、57番・紫式部と並ぶ女流歌人として高く評価されています。しかし、結婚生活には悩みが多く、夫と相模国に下って後、任国での夫の浮気、華やかな京への懐かしさから、箱根権現に百首歌を奉納して、身のつらさを訴えました。夫との不仲や孤独を嘆く歌が多く含まれ、子を願う歌もありました。とはいえ、悲しい歌ばかりではなく、味わいのある、恋の秀歌も数多く詠んでいます。「後拾遺集」に40首もの歌が収められていますが、その半数は恋の歌です。帰京後まもなく、公資は相模を妻としてふさわしくないと思ったのか、近江守に任じられた時、新妻を伴って任地に下って行きました。公資と別れ、64番・権中納言藤原定頼(さだより)、源資道(すけみち)、橘則長(のりなが)などと恋愛しましたが上手くいきませんでした。一条天皇の第一皇女、脩子(しゅうし)内親王、後朱雀天皇の皇女・祐子(ゆうし)内親王に仕えました。本格的な歌壇活動は40歳を過ぎてからで、70歳前後で亡くなるまで歌人として後半生を全うしました。「永承6年(1051年)内裏歌合」に召された10人の歌人の中で、相模は唯一の女性であり、女流歌人として当代随一と評されていたことがわかります。また、関白頼通が歌合を開いた時、相模の歌が詠み上げられると「殿中鼓動して外郭に及ぶ」(御殿が感嘆の声で震えた)という逸話も残っています。中古三十六歌仙の一人です。
代表的な和歌
●「光あらむ 玉の男子(をのこご)えてしがな かき撫でつつも 生(お)ほしたつべく」(光かがやく玉のような男の子をお授けくださいな。心から愛しみながら育てられるような男の子を。「相模集」夫の公資と共に任国の相模国に住んでいた作者は、箱根権現に参詣し、百首歌を奉納しました。夫との仲は思わしくなく、さまざまな悩みを抱えていた時期でした。百首の中の「子をねがふ」という歌です。)
●「なにか思ふ なにをか嘆く 春の野に 君よりほかに 菫(すみれ)つませじ」(何を思い煩うのです。何を嘆くのです。春の野で、あなた以外の人に菫を摘ませたりしません。(「相模集」)
●「たのむるを たのむべきには あらねども 待つとはなくて 待たれもやせむ」(「待っていてくれ」なんて言って、あてにさせるあなたを信頼すべきではないのだけれど、待つつもりはなくても、やはり心は待ってしまうのでしょうか。「後拾遺集」)
●「いつとなく 心そらなる 我が恋や 富士の高嶺に かかる白雲」(恋をしている私の心は、いつと限らずうわの空になってしまう。これではまるで富士山にかかっている白雲。「後拾遺集」)
●「五月雨の 空なつかしく にほふかな 花橘に 風や吹くらむ」(五月雨の空に、しみじみと心ひかれる芳香が広がっています。どこかの橘の花に、いま風が吹いているのでしょうか。「後拾遺集」) 
エピソード
●夫の公資はささいなことに機嫌を損ねて、相模が創作した歌集や物語を探し出して焼き捨てたり、荷物をまとめて出て行ったりして、夫婦間のけんかが絶えなかったようです。彼女があこがれたのは王朝の風雅であり、都ぶりの公達でした。箱根権現に奉納した百首歌の中に「いつくしき 君が面影 あらはれて さだかにつぐる 夢をみせなむ」(凜として美しいあなたの御姿が現れて、はっきりと良きことを告げる夢を見せてほしい。「相模集」)があります。その時、相模が心に描いた男性はだれだったのでしょうか。敦貞親王だったとも、63番・藤原定頼だったとも伝えられています。
●相模の歌才の評判は高く、夫として劣等感を抱くこともあったのかもしれません。「袋草紙」には、人事の会議で、公資が大外記(だいげき)という事務の要職が決まりかけていた時、「公資は相模を抱いて秀歌を詠もうとするので、仕事をなまけるのではないか」との発言があり、その場にいた人が大笑いし、結局、任官できなかったという話が記されています。
●相模の父・源頼光(よりみつ)は「今昔物語」「宇治拾遺物語」などに多くのエピソードを残しています。大江山で暴れていた鬼・酒呑童子を退治した話、土蜘蛛の精に襲われた話などが有名です。
●相模の家集には、走湯権現の社頭に埋めた自作の百首、権現からの返歌の百首、それに対しての返歌百首、あわせて三百首が残っています。静岡県熱海市にある伊豆山は、海岸に沿って走るようなかたちで温泉が湧いたため、走湯山(そうとうざん)とも呼ばれています。 ●相模の父・源頼光(よりみつ)は、大江山で暴れていた鬼・酒呑童子を退治した話、土蜘蛛の精に襲われた話など、多くのエピソードを残しています。東向観音寺には、頼光を悩ませたとされる土蜘蛛塚があります。
●伊豆権現からの返歌の百首は、64番・中納言定頼が、都から慰めの百首を届けたのではないかという説もあります。 ●「定頼集」には、形見がほしいとせがまれて鏡をさしあげたところ、遠国の名ある女性からの返歌「君が影 みえもやすると ます鏡 とげど涙に なほ曇りつつ」が載せられています。相模ではないかとの説があります。 ●左右に分かれて持ち寄った絵を比べ、その優劣を競う遊びを絵合といいます。平安時代から流行しました。永承(えいしょう)5年(1050)の正子内親王絵合にも参加しています。