プロフィール 紫式部

紫式部
(むらさきしきぶ。970年頃~1019・1020年頃)

  文章生(もんじょうしょう)出身の漢学者である藤原為時(ためとき)の次女。本名は分かりませんが、藤原香子(たかこ・よしこ)ではないかとう説もあります。幼い頃、兄が読んでいた「史記」(中国の歴史書)をたちまち暗記し、兄の間違いまで指摘したほどの才女で、父はその学力を評価して式部が男でないことを嘆いたと伝えられています。幼くして母を亡くし、少女時代には姉を亡くしたさびしさをうめるかのように、和歌・漢詩・物語のほかに古記録など、手あたり次第に書物を読んだといいます。父が越前(今の福井県)に赴任したため、20代の半ばに地方で暮らしました。しかし、雪国での厳しい生活がつらかったのか、1年ほどで都に一人戻り、27歳で藤原宣孝(のぶたか)の妻となりました。47、8歳で紫式部と同年くらいの息子もいる夫でしたが、一女賢子(かたいこ:58番・大弐三位)が生まれ、幸せな結婚生活でした。ところが、結婚わずか3年目の長保3年(1001)4月、夫が病で亡くなり、幼子を抱えて父に頼るしかない悲しみの日々を送ります。その頃から「源氏物語」を書き始めたようです。その後、藤原道長に招かれ、一条天皇の中宮彰子(しょうし)の学問の指導係として出仕します。女房名は藤式部(とうのしきぶ)でしたが、「源氏物語」が評判になり、登場人物の紫上(むらさきのうえ)から紫式部と呼ばれるようになったそうです。「源氏物語」の制作と流布を援助した道長は、料紙や墨、書写の人手までも手配しました。その日記「紫式部日記」には宮廷生活の様子が記されていますが、内向的で思慮深かったという式部の本音を知ることができます。社交的で華やかな宮仕えには向かない自分の性格を告白する一方、有名な女房たちへの手きびしい批評もあります。また家集「紫式部集」は、少女時代に詠んだ「めぐりあひて」の歌に始まり、越前での生活、宣孝の求婚、その死、友人との贈答歌、宮仕えの生活が詠まれています。「源氏物語」の作者としての名声に隠れて、歌人としての紫式部についてはあまり注目されていませんが、勅撰集には「後拾遺集」以下62首ほどとられています。また「源氏物語」の作中には約800首の和歌がそれぞれの登場人物になりきって詠まれていて、並々ならぬ歌才であったことがわかります。
代表的な和歌
●「ほととぎす 声待つほどは 片岡の 森の雫に 立ちや濡れまし」(ほととぎすの声を待っているうちに、夜も明け方になってしまいましたが、それでも片岡の森に立ちつくして森の雫に濡れたものかしら。「新古今集」上賀茂神社に参詣し、ほととぎすの声を聞こうと夜明けを迎えた折の歌です。)
●「入る方は さやかなりける 月かげを うはの空にも 待ちし宵かな」(山への入りぎわが明るかった月の光を、心も落ち着かず浮き浮きしながら待っていた宵であることです―帰りぎわには未練もない様子だったあなたを、私はうわの空でお待ちしていた宵であることです。「新古今集」男を「月かげ」に見立てて、他の女性の家に行く男へのうらみを表現しています。)
●「み吉野は 春のけしきに かすめども むすぼほれたる 雪の下草」(吉野の里は春の景色にかすんでいるけれど、雪におされてまだ芽の伸びない草のように、沈んだ気持ちでいます。「後拾遺集」)
●「見し人の 煙になりし 夕(ゆうべ)より 名ぞむつましき 塩釜(しほがま)の浦」(夫婦として暮らした夫が火葬の煙になった夕方から、塩を焼く煙が火葬の煙を連想させて、塩釜と言う名前までもが慕わしいことです。「新古今集」夫の死後、東北地方の名所の絵を見て詠んだものです。)
●「年暮れて 我が世ふけゆく 風のおとに 心のうちのすさまじきかな」(一年が暮れて、私もまた年を取るのだと思いつつ、夜更けの吹きつのる風の音を聞いていると、心の中のなんと冷え冷えと荒んでいることよ。「玉葉集」)
●「見てもまた 逢ふ夜まれなる 夢のうちに やがてまぎるる 我が身ともがな」(今夜はお逢いできましたが、再びお逢いする夜は、まれでしょう。そんなはかない逢瀬の夢の中に、そのまま紛れ込んで消えてしまう我が身でありたいものです。「源氏物語」の「若紫」から夏の夜、光源氏か藤壺の中宮と密会した後の歌です。「源氏物語」には約800首もの和歌が、登場人物の身分、性格、教養にそって詠み分けられています。また同じ人物でも年を重ねるにしたがい、詠風を変えてリアリティーを出しています。並々ならぬ技量の歌人だといえるでしょう。)
●「めずらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代(ちよ)をめぐらめ」(若宮お誕生の祝宴のすばらしい光のさしそう杯は、手に持ちながら満月のように欠けることなく、人々の手から手へと千年もめぐり続けることでございましょう。「紫式部日記」には一条天皇の中宮彰子の皇子出産にかかわる十五夜の祝賀の様子がくわしく記されています。「女房よ、杯を受けて歌を詠め」と言われた時のために、どの女房も口々につぶやいて和歌の試作をしていました。「さかづき」に「栄月(さかづき)」、「もち」に「望」をかけ、「さす」は「光がさす」と「杯をさす」をかけています。「光」「さしそふ」「もち」「めぐる」は月の縁語です。)
エピソード
●「源氏物語」の評判が藤原道長の耳に入り、宮仕えを頼まれたともいわれています。唐の詩人白居易(はくきょい)の詩集「白氏文集」を中宮彰子に講義したそうです。宮中での日常を書きとめた「紫式部日記」には、55番・藤原公任や62番・清少納言、56番・和泉式部、59番・赤染衛門など、当時華やいでいた人々の様子、批判や悪口もつづられています。寛弘5年(1008年)、中宮彰子の皇子誕生に際して、道長邸のにぎわいや生誕50日の祝いの様子も記されています。55番・藤原公任が式部たちの御簾(みす)の前にやってきて「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」(失礼ですが、このあたりに若紫はおいででしょうか)と呼びかけてからかったという記述から、「源氏物語」の「若紫」の巻が、すでにこの頃高い評判をとっていたことがわかります。また、一条天皇が「この人は日本紀(日本書紀のこと)をこそ読み給ふへけれ。まことに才あるべし」(この人はあのむずかしい日本紀をお読みのようだね。本当に学識があるらしい)とおっしゃったのを聞いて、ある女房が嫉妬(しっと)して「日本紀の局(つぼね)」とあだ名をつけて殿上人にいいふらしました。どうして宮中で学問をひけらかしたりするでしょうかと反発しています。また、他の女房への評価については、和泉式部は、普段の素行に問題があるけれど天性の歌才が感じられる。赤染衛門は、地位は高くないが、気のきいた品のある歌を詠む。特に清少納言については、漢字を書き散らしてかしこく見せたがっているが、漢詩や漢文を理解できてないことが多く、実はたいしたことはないなどと手きびしいです。
●「紫式部日記」には、道長が紫式部の歌才を認め、気軽に歌のやり取りを楽しんでいる様子が何度か記されています。早朝、道長が庭のおみなえしを一枝折り取って、紫式部の部屋の几帳ごしに上からさしかざすと、紫式部はすぐに「おみなへし さかりの色を 見るからに 露のわきける 身こそ知らるれ」(おみなえしの露を含んで今を盛りの美しい色を見ましたばかりに、露が分けへだてをして置いてくれない盛りを過ぎたこの身の上が、思い知らされます)と詠みます。道長は「おお早く詠んだね」とほほえんで、心のもちようで美しくなれますよという慰めの歌を返します。道長への敬愛の情が感じられるエピソードです。
●鎌倉時代前期の歌合「六百番歌合」の判者を務めた83番・藤原俊成は、その判詞(はんし:歌の優劣の判定を述べた言葉)の中で「紫式部歌よみの程よりも物かく筆は殊勝(しゅしょう)なり。そのうへ花宴の巻はことにえんなる物なり、源氏見ざる歌よみは遺恨(いこん)の事なり。」(紫式部は歌人以上に物語を書く能力が優れている。加えて、「源氏物語」の花宴の巻はとくに優美なものである。「源氏物語」を読まない歌人はだめだ。」と述べています。「源氏物語」は貴族社会において必須(ひっす)の教養となりました。
●滋賀県大津市の石山寺は紫式部が源氏物語を書きはじめたという伝説の残る寺です。紫式部が石山寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たそうです。 ●本堂の隣「紫式部源氏の間」には紫式部の人形が置かれ、物語を書き出しそうな雰囲気です。 ●石山寺の一番高い場所に位置する光堂のそばには紫式部の像があります。
●上賀茂神社の片岡社のそばに、紫式部が参拝した時に詠んだ「ほととぎす」の歌碑があります。縁結びの社として紫式部の絵馬があふれるほどありました。 ●紫式部の墓と伝えられるものが、小野篁の墓と並んで北区紫野(堀川北大路交差点付近)に建てられています。この場所は紫式部が晩年に住んだといわれる雲林院の境内であったといわれています。 ●引接寺(いんじょうじ)には紫式部の供養塔と紫式部像があります。住職の夢枕に地獄に落ちて苦しんでいる紫式部が現れて、「助けてほしい」と救いを求めたことから建立したそうです。