プロフィール 俊恵法師
俊恵法師
(しゅんえほうし。1113年~1191年頃)

  71番・源経信(つねのぶ)の孫、74番・源俊頼(としより)の息子で、3代続けて百人一首に歌が選ばれています。「金葉集」の撰者である父・俊頼に歌を学びましたが、17歳で死別し、出家して奈良・東大寺の僧となりました。40代になると、京都白川の自分の別邸を「歌林苑(かりんえん)」と名付け、歌人たちを集めて月例会を持つなど、保元(1156)以降治承(1177)の頃までサロンとしました。40人を越す参加者の中には、源頼政、82番・道因法師、84番・藤原清輔、87番・寂蓮法師、90番・殷富門院大輔、92番・二条院讃岐、など、有名な歌人もいましたが、身分・性別の区別なく幅広い階層の人々が集まりました。流派にこだわらない自由な雰囲気で、度々歌合や歌会を催しています。ここに集まった歌人たちは、生活での困りごとなども相談し合う仲だったらしく、俊恵法師が面倒見のよい人物だったことがうかがえます。俊恵法師の和歌の弟子である鴨長明は、その著書「無名抄(むみょうしょう)」に、俊恵法師の歌論を伝えています。現在、俊恵作と伝えられている歌は千百首あまりですが、その多くは40歳以降に詠まれたものです。自然詠や恋の歌を得意としていました。「詞花集」以下の勅撰集に84首入集しています。俊恵の父・源俊頼と親しかった83番・藤原俊成は「千載和歌集」に俊恵の歌を一番多い22首撰入しています。自撰家集に「俊恵法師集(林葉和歌集)」があります。
代表的な和歌
●「み吉野の 山かき曇り 雪ふれば 麓(ふもと)の里は うちしぐれつつ」(吉野の山が曇って雪が降ると、ふもとの里は、しきりに時雨が降ることだ。「新古今集」俊恵自身がこの歌を「面歌(おもてうた:すぐれた歌)だと語ったと「無名抄」に記されています。)
●「春といへば かすみにけりな 昨日まで 波間に見えし 淡路島山」(冬であった昨日までは波の間にはっきり見えた淡路島の山が、立春の今日は、もう霞んでしまったことだ。「新古今集」家集によると「立春の心」を詠んだ歌です。)
●「み吉野の 山した風や はらふらむ こずゑにかへる 花のしら雪」(吉野の麓(ふもと)を吹く風が払うのだろうか。一度散ったのに、梢に吹き戻される花の白雪よ。「千載集」落花を雪にたとえた歌です。)
●「死なばやと あだにもいはじ 後の世は 面影だにも 添はじと思へば」(あの人の姿がいつまでも忘れられずつらくても、死にたいなんて軽はずみに口にはしません、あの世では面影さえも私に寄り添ってはくれないでしょうから。「新勅撰集」)
●「恋ひ死なむ 命をたれに 譲りおきて つれなき人の はてを見せまし」(恋焦がれて早死にする残りの命を誰かに譲って長生きしてもらい、つれない人のなれのはてを見てもらおうか。「千載集」)
●「思ひかね なほ恋路にぞ かへりぬる 恨みはすゑも とほらざりけり」(あの人への恋しい思いは捨てきれないで、結局また恋の道に戻って来てしまったよ。好きな人への恨みは、最後まで貫き通せないものだなあ。「千載集」)るにつれてますます見飽きない桜の花であるよ。「玉葉集」)
エピソード
●「後鳥羽院御口伝」には俊恵について「穏(おだ)しき様に詠みき」と穏和な詠み口だと述べています。また、俊恵が理想としていた和歌の詠みぶりは「五尺のあやめ草に水をいかけたるやうに歌は詠むべしと申しけり」と伝えています。
●鴨長明は「無名抄」の中に、師であった俊恵法師の言葉を多数書き残しています。「風情もこもり素直なる姿」がよい歌である、少しばかり評判をとっても得意にならず、初心を忘れずに精進しなさいと教えられたそうです。また、「無名抄」の『俊成自讃歌事』で俊成の「夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉鳴くなり 深草の里 」の歌についてきびしく批評しています。身にしみる秋の夕景を巧みに詠じた佳作だけに、『身にしみて』という第三句がとても残念だ。景色・雰囲気をさらりと言い流して、ただ暗に身にしみたであろうと思わせてこそ奥ゆかしく優美なのに、はっきり詞で言い表してしまったせいで、うすっぺらくなってしまったというのです。つまり、悲しい、さびしいの語を使わずに、寂寥(せきりょう)を伝えてこそ歌人の芸であるという主張です。
●父に歌を学びましたが、17歳で死別し、出家して奈良・東大寺の僧となりました。 ●別邸を「歌林苑(かりんえん)」と名付け、歌人たちを集めて月例会を開いていました。当初、南区久世殿城町の福田寺(ふくでんじ)で開かれ、後に京都白川の僧坊へ移され20年ほど開かれたともいわれています。
●福田寺境内に俊恵法師の歌碑「故郷の 板井の清水 み草ゐて 月さへ澄まず なりにけるかな」 (見捨てられた里の板囲いの井戸の清水は水草が生えて、人が住まないだけでなく、月まで澄まなくなったことだ。「千載集」) ●俊恵法師の和歌の弟子である鴨長明(「方丈記」の著者)は、「無名抄(むみょうしょう)」に、俊恵法師の歌論を伝えています。下鴨神社摂社の河合神社には、方丈の庵が復元されています。