プロフィール 道因法師

道因法師
(どういんほうし。1090年~1182年頃)

  俗名は藤原敦頼(あつより)。父は治部丞清孝(じぶのじょうきよたか)です。従五位上・右馬助(うまのすけ:朝廷の馬を飼育・管理をする役所の次官)でした。仕事にも歌にも一途で、競争心が強く、ケチで有名でした。数々の歌合に出詠し、70、80歳になるまで、よい歌が詠めるようにと徒歩で京都から大阪の住吉社(和歌の祭神)に毎月参詣したり、大規模な歌合を主催し、その歌を住吉神社に奉納したといいます。承安2年(1172)、83歳頃に出家して道因と名のりました。自由な立場で歌壇のどのグループの集まりにも出ていましたが、歌林苑(かりんえん)という下級貴族の集まりと行動することが多く、85番・俊恵法師らと大井川に紅葉見物に出かけたりしています。現役最高齢という事で、敬意をもって迎えられたと思われますが、歌道への執着は熱心さを通り越して異常なほどで、人々を困らせた多くの逸話もあります。治承3年(1179)、90歳の時に右大臣藤原兼実(かねざね)家の歌合に出席したのが記録で確認できます。晩年は比叡山に住みましたが、耳が遠くなっても歌会に出て、歌を読み上げる講師(こうじ)の席まで分け入ってそばに座り、一言も聞き漏らすまいと聞き耳を立てていたそうです。「千載和歌集」には初入集でありながら20首も選ばれました。家集は散逸して見ることが出来ません。
代表的な和歌
●「花ゆゑに しらぬ山路は なけれども まどふは春の 心なりけり」(毎年花を尋ねて歩き回ったおかげで、知らない山路はないけれども、やはり春が来ると心はあれこれと迷ってしまうのだった。いつ咲くだろう、咲いたらどの花を見に行こうかと思い悩んで。「千載集」)
●「夕まぐれ さてもや秋は 悲しきと 鹿の音(ね)きかぬ 人にとはばや」(ほの暗い夕方、鹿の哀れ深い声を聞いていない人に問うてみたいものだ。それでもやはり秋は悲しいものか、と。「千載集」)
●「馴れてのち 死なむ別れの かなしきに 命に替へぬ 逢ふこともがな」(恋人と馴れ親しんで、その後で死ぬことになってしまったら、別れはどんなにか悲しいだろう。それを思えば、なんとか命と引き換えにせずにあの人と逢いたいのだ。「千載集」)
●「いつとても 身の憂きことは 変らねど むかしは老いを 歎きやはせし」(若い頃からいつであっても身の憂さの嘆きはずっと変わらないのだが、それでも昔は老いを嘆くことがあったであろうか。年老いた今、さらに嘆きの種は増えたのだ。「千載集」)
●「晴れ曇り 時雨は定め なきものを 古り果てぬるは わが身なりけり」(晴れたり曇ったりして、時雨は、やんだり降ったりさだまらないのに、すっかり老いてしまったのは、私の身であることだ。「新古今集」)
●「嵐ふく 比良(ひら)の高嶺の ねわたしに あはれ時雨しぐるる 神無月(かみなづき)かな」(比良山には嵐が吹き、そびえる峰々をわたる風に雲が運ばれて来て、ああ、時雨れてきたよ。なんてわびしい10月だ。「千載集」)
エピソード
●物に対する執着が強い性格だったようです。馬の飼育や訓練にあたる役所の役人をしていた時に、部下の馬飼いたちに仕事の報酬として金を払わなかったので、怒った馬飼いに儀式の時に装束をはぎとられ裸で逃げ出しました。それ以来「裸馬助(はだかうまのすけ)」とからかわれました。(「古事談」)また、62歳の時には市中で刃傷沙汰(にんじょうざた)にあって命を落としかけたそうです。(歴史書「本朝世紀」)
●「無名抄(むみょうしょう)」の「道因歌に志深かりける事に」はさまざまな逸話が記されています。死後、「千載集」に多くの歌が掲載されたのを喜び、選者である83番・藤原俊成の夢に出てきて涙を流してお礼を言ったので、俊成は心を動かされてさらに2首追加して、20首入集になったという話まであります。著者の鴨長明は「この道に心ざし深かりしことは道因入道並びなき者なり」とほめ、撰者の処置も「しかるべかりける事にこそ」と賛同しています。しかし、人を悩ませる出来事も多くありました。判者である84番・藤原清輔が道因法師の歌を負けにしたところ、判定に納得でないと、自分の歌に欠点がないことを書き連ねた意見書を清輔のもとに送りつけたり、別の歌会に出詠者として招待されなかったことで、主催者に抗議の歌を送ったりしています。さらに、永縁僧正が、琵琶法師に贈り物をして自作の歌をあちこちで歌わせ、風流人として評判を得たと聞き、道因法師もまねをして芸人を集めて自讃歌を歌えと責めましたが、報酬を与えなかったので、世間の物笑いになったといいます。
●ケチで有名でした。馬の飼育や訓練にあたる役所の役人をしていた時に、部下の馬飼いたちに仕事の報酬として金を払わなかったので、怒った馬飼いに葵祭の時に装束をはぎとられ裸で逃げ出しました。 ●歌林苑という下級貴族の集まりに出たり、時には大井川に紅葉見物にも出かけています。
●歌合で惨敗した時には、判定に納得できないと、判者の84番・藤原清輔に意見書を送りつけました。 ●83歳頃に出家して道因と名のり、比叡山に住みました。耳が遠くなっても歌会に出て、歌を読み上げる講師(こうじ)の席まで分け入ってそばに座り、一言も聞き漏らすまいと聞き耳を立てていたそうです。