プロフィール 菅家

菅家
(かんけ。845年~903年)

  菅家は尊称で、学問の神様・菅原道真(すがわらみちざね)のことです。名門の学者の家に生まれ、最年少の18歳で文章生(もんじょうしょう)の試験に合格し、33歳の若さで最高の権威・文章博士(もんじょうはかせ)となりました。「このたびは」の歌を詠んだ翌年、昌泰2(899)年には54歳で右大臣に出世します。学者の出身者が大臣になるのは、140年ぶりの大抜擢でした。宇多天皇が道真を高く評価したからです。しかし、左大臣、藤原時平(ときひら)にねたまれ、醍醐天皇に譲位後、謀反(むほん)の疑いで、大宰権帥(だざいのごんのそち)として九州に追放されました。道真の娘が嫁いでいた斉世親王(醍醐天皇の弟宮)を天皇にしようと企んだというのです。2年後、道真は失意のうちに59歳で亡くなりました。ところが、その後、天変地異が相継ぎ、御所の紫宸殿(ししんでん)に雷が落ちたり、地震があったりしました。皇太子や時平の急死など、道真の追放にかかわった人々に不幸が続いたため、世間の人々は「たたりにちがいない」とおそれました。そこで、死後に道真の罪を取り消して太政大臣の位を贈るとともに、大宰府天満宮、京都の北野天満宮にその霊が祀られることになりました。優れた学者であり歌人であったので、現在も学問の神様として信仰されています。漢詩文集に「菅家文草」「菅家後集」があり、和歌集も「菅家御集」ほか数多く伝わっています。寛平5年(893)、和歌・漢詩からなる「新撰万葉集」を撰進しています。
代表的な和歌
●「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘.るな」(東風が吹いたら、匂いを配所の私のもとまで寄越してくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春であることを忘れるなよ。「拾遺集」家族と別れて紅梅殿と呼ばれた邸を出る時、梅の盛りを見て詠み残したことは有名です。)
●「流れゆく 我が身は 水屑(みくづ)となりぬとも 君しがらみと なりてとどめよ」(配所へ流されてゆく私は、もはや水中のごみのように落ちぶれてしまいました。わが君よ、柵となってこの政変を止めてください。「大鏡」九州に左遷となるとき宇多院に奉った歌です。)
●「さくら花 ぬしをわすれぬ ものならば 吹き来む風に 言伝てはせよ」(桜の花よ、主人を忘れないならば、配所まで吹いて来る風に言伝をしてくれよ。「後撰集」これも京の家を発つ時の歌で、前栽の桜の花に結びつけた歌です。)
●「君がすむ 宿のこずゑの ゆくゆくと 隠るるまでに かへりみしやは」(あなたの住む宿の木々のこずえが、私の遠ざかって行くにつれ、次第に隠れて見えなくなるまで、何度も振り返って見たことだ。「拾遺集」「大鏡」によれば、山崎で出家して船に乗り、都が遠ざかって行くのを心細く思って正妻に贈った歌です。)
「山わかれ 飛びゆく雲の かへり来る かげ見る時は なほ頼まれぬ」(山から別れ、飛び去っていく雲が、再び山に帰ってくる姿を見ると、自分もひょっとしてあの雲のように、もう一度都へ帰れるのではないかと、やはり頼みに思われることだ。「新古今集」「大鏡」配所での作です。)
●「あめのした かわけるほどの なければや 着てし濡衣(ぬれぎぬ) ひるよしもなき」(雨の降りしきるこの天下では、乾いている所がないからであろうか、強いられて着た濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)は、乾くにも乾きようがないことだ。「拾遺集」「大鏡」。「濡衣(ぬれぎぬ)」で無実の罪を暗示しています。)
●「あしびきの こなたかなたに 道はあれど 都へいざと いふ人ぞなき」(山のあちらこちらに道はあるけれど、その道を通ってさあ都に帰ろうと声をかけてくれる人もいないことだよ。「新古今集」配所で詠まれたと伝えられています。)
●「老いぬとて 松はみどりぞ まさりける 我が黒髪の 雪のさむさに」(老いてしまったというので、松はいっそう緑の色を増していることだ。私の黒髪は雪のように白くなって寒々とした思いでいるのに。「新古今集」)
エピソード
●「菅家(かんけ)」という表記は、平安末期以降の天神信仰から生まれた呼び方です。定家の時代、道真は天神様として祀られていたのです。ある学生服メーカーの名前は、子どもたちの健康と学業成就を願って学問の神様である菅原道真公(菅公=かんこう)にちなんで名づけられたそうです。
●「大鏡」には失脚後から亡くなるまでの道真の姿がくわしく描かれています。道中や九州での罪人としての扱いは冷たく、無残なものだったようで、漢詩や和歌にその心情が詠われています。また、死後、道真の怨霊(おんりょう)のために時平の一族が短命に終わった話も記されています。39歳で時平が亡くなり、時平の妹・穏子(おんし)と醍醐天皇の子である保明(やすあきら)親王が21歳で亡くなります。2年後には、時平の孫にあたる慶頼王(よとよりおう)が5歳で死に、醍醐天皇も病気になり、時平の息子・敦忠も38歳の若さで亡くなっています。多くの人々が若くして亡くなったので、道真のたたりではないかと伝えられるようになったのです。また、死後に雷神となった道真があわや清涼殿に落ちかかった時、時平が太刀を抜いて「あなたは存命中も私の次位にいたのに、例え雷神になってもこの世では私に遠慮されるのが当然であろう。」とにらんだら、その時だけは雷が鎮まったそうです。これは道真の霊が、個人の恨みより公人として朝廷の秩序を乱してはならぬと分別を示したからだと記されています。
●「古今集」巻18の雑歌は、大宰府での心情を詠んだ道真の歌、12首から始まっています。その境遇がいかに厳しいものであったのかが伝わってきます。12首の中から最後の2首を紹介します。
「彦星の ゆき逢ひを待つ 鵲(かささぎ)の 門(と)渡る橋を われに貸さなん」(彦星が織姫に逢うのを待っている、鵲のかけた、天の川の川門(かわと)を渡る橋を、私に貸してほしい。「古今集」都に帰り、妻に逢いたいというかなわぬ願いが込められているようです。)
「流木(ながれぎ)と 立つ白波と 焼く塩と いづれか辛(から)き わたつみの底」(流れ木と、立つ白波と、焼く塩と、そのどれが最も辛いものか、海の底よ。「古今集」)
●菅原院天満宮神社は道真誕生の地とも伝えられていて、産湯に使ったという井戸が保存されています。 ●北野天満宮は道真を祀った全国の天満宮・天神社の総本社で、受験シーズンには大人気です。全国には3953社の天満宮があります。国宝「北野天満宮絵巻」には、死後鬼となった道真が描かれています。
●道真が誕生した6月25日、亡くなった2月25日にちなんで、毎月25日は「天神さんの日」です。北野天満宮の境内には多くの露店が出て、夜は600の燈籠(とうろう)がライトアップされ、多くの人でにぎわいます。 ●「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた福岡県の大宰府では、九州全域の支配や、外国使臣の接待などを行っていました。道真は大宰府にて死去し、安楽寺(現在の大宰府天満宮)に埋葬されました。現在は学問の神様として祀られています。拝殿・右手前に飛梅が立っています。道真が大宰府へ左遷される際に道真を慕って大宰府まで飛んでいったという伝説があります。 ●道真のイメージは、その徳が後世に注目されるようになり、たたり神から学問の神様へと変わりました。呼び名の菅公(かんこう)は学生服のメーカー名にもなりました。