|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
藤原興風
(ふじわらのおきかぜ。9~10世紀の人)
日本初の歌論書「歌経標式(かきょうひょうしき)」をあらわした藤原浜成(はまなり)のひ孫、道成(みちなり)の子どもです。「古今集」選者の35番・紀貫之らと同時代の人です。官位は低く、治部少丞(じぶしょうじょう)、下総権大掾(しもうさのごんだいじょう)になり、従五位下の位を授けられました。著名な歌合・歌会に参加したり、屏風歌を詠んだりするなど、宮廷歌人として活躍しました。三十六歌仙の一人で、勅撰和歌集に38首入集している他、家集として「興風集」があります。紀貫之や29番・凡河内躬恒も一目おく存在でした。管絃の才能にも恵まれ、笛や琵琶に優れ、琴の腕前は天才的であったそうです。宇多院の琴の先生として名を知られました。「古今集」に入集した歌のほとんどが「寛平御時后宮歌合」の歌であり、寛平年間(889年~898年)における名声の高さがうかがわれます。 |
|
|
|
|
●「契りけむ 心ぞつらき 七夕の 年に一度(ひとたび) 逢ふは逢ふかは」(その昔、逢いましょうと約束した七夕姫の心はつれないことです、一年に一度だけ逢うなどというのは逢ううちにはいるのだろうか。「古今集」)
●「怨みても 泣きても言はむ かたぞなき 鏡に見ゆる 影ならずして」(あの人を恨んでも、泣いても、鏡に映っている私の姿以外には、今さら訴える所がないのだ。「古今集」)
●「死ぬる命 生きもやすると こころみに 玉の緒ばかり 逢はむと言はなむ」(あなたのつれなさに死んだも同然の私です。この命が生き返りでもするかと、ためしに短い間だけでも逢おうとおっしゃってください。「古今集」)
●「きみ恋ふる 涙のとこに みちぬれば みをつくしとぞ 我はなりぬる」(あなたに恋い焦がれて流す涙が寝床に満ちて海のようになりましたので、我が身は常に波に濡れる澪標(みおつくし)となり、身を滅ぼすことになってしまいました。「古今集」)
●「わが恋を 知らむとならば 田子の浦に 立つらむ浪の 数をかぞへよ」(「後撰集」恋人から愛情の程度を尋ねられて、即興に詠んだ歌です。) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
●老後の孤独を嘆いた興風ですが、「古今集」の青春時代の恋の歌は魅力的です。「逢ふまでの 形見とてこそ とどめけめ 涙に浮かぶ もくづなりけり」(「あなたはこの次に逢うまでの形見のつもりで置いていったのでしょうが、私は悲しくて涙を海のように流したので、せっかくの形見の裳(も)が藻屑(もくず)のように浮かび始めました。「古今集」)の歌には、長い詞書が記されています。親が目も放さず大事にしていたある娘にこっそり逢い、話などしているうちに「親御さんが呼んでいますよ」と娘の侍女が言ったので、娘は急いで引きあげようとして、こともあろうにそこに脱いで置いた裳(も:女房が正装する時、はかまの上から腰にまとう飾りの衣服。)をそのままにして奥の自分の居間に入ってしまいました。後に裳を返そうと思って詠んでやった歌だそうです。「裳」と「藻」が同音であることを生かしたユーモアのある歌です。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
●管絃の才能にも恵まれ、笛や琵琶に優れ、琴の腕前は天才的であったそうです。宇多院の琴の先生として名を知られました。 |
●「春霞」の歌は、女性の春の行事である若菜摘みを題材した歌ですが、優しい感情が表現された歌です。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
●「逢ふまでの 形見とてこそ とどめけめ 涙に浮かぶ もくづなりけり」という恋の歌がありますが、平安時代の女房の後姿です。はかまの上から腰にまとう飾りが「裳(も)」です。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「誰をかも」の歌碑は、亀山公園にあります。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|