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良暹法師
(りょうぜんほうし。998年~1064年頃)
平安時代も半ばを過ぎると、陶淵明(とうえんめい)など中国の詩人の影響もあって、わずらわしい都会を離れて、人里離れた所で自然とともに暮らす生活にあこがれる人々がめだってきました。良暹法師もその一人です。後朱雀(ごすざく)・後冷泉(ごれいぜい)天皇の頃の人です。山城国愛宕郡(おたぎのこおり)の生まれで、父親は分かりませんが(一説には比叡山の僧)、母親は藤原実方の家の童女(めのわらべ:召し使い)白菊だとされています。比叡山の僧侶で、祇園社(ぎおんしゃ:京都の八坂神社)の別当を経て、京の洛北・大原の里に庵を結び、晩年は雲林院(うりんいん)に住んだといわれています。「権大納言師房(もろふさ)家歌合」など、人気のある歌人を集めた歌合や歌会にしばしば出席し、「後拾遺集」に14首入集しています。69番・能因法師や71番・源経信、藤原通俊など歌壇の中心となる人々とも知り合いであったようです。その逸話から歌人として尊敬を集めていたことが分かります。「良暹打聞」という私撰集を編んだといいますが、現存していません。一説には、康平年間(1058年~1065年)に67歳ぐらいで亡くなったとも言われています。 |
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●「板間より 月のもるをも 見つるかな 宿は荒らして すむべかりけり」(板の隙間から月光が漏れるのを見たことだ。庵はこのように荒して住むのがよかったのだなあ。「詞花集」大原の里で同じ頃に詠まれた歌で、庵の粗末さ、質素さが分かります。)
●「白菊の 移ろひゆくぞ あはれなる かくしつつこそ 人もかれしか」(「後拾遺集」男に忘れられた妹をいたわった歌です。)
●「たづねつる 花もわが身も おとろへて後の春とも えこそ契ちぎらね」(訪ね求めてやって来た桜も、わが身も、共に衰えて、次の春にまた訪ねて来ようと約束できそうにないのだ。「新古今集」雲林院に桜を見に行ったら、みな散ってしまって、わずかに片枝に残っていたのを詠んだ歌です。)
●「死出の山 まだ見ぬ道を あはれ我が 雪ふみわけて 越えむとすらむ」(死出の山の見知らぬ道を、ああ今私はこの雪を踏み分けて越えようとするのだろうか。「俊頼髄脳」病になって雪の降った日に、死のうとして詠んだ歌。)
●「さ月やみ 花橘に 吹く風は 誰が里までか 匂ひゆくらむ」(五月の闇夜、橘の花を吹いて過ぎる風は、誰の住む里まで匂いを運んでゆくのだろうか。「詞花集」) |
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●「今鏡」や「袋草紙」に逸話が残っています。「袋草紙」には、平安時代の大歌人74番・源俊頼(としより)が、大原に出かけた折、良暹法師の庵の前で下馬して敬意を表したので、人々も感心して下馬したという話があります。また、86番・西行法師も良暹法師を敬慕していて、庵を訪れています。「大原や まだ炭窯も ならはずと いひけむ人を 今あらせばや」(「山家集」)と、良暹法師が今生きてここに住んでいたらなあ、と感激のあまり妻戸(つまど:家の端にある両開きの戸)に歌を書きつけています。西行法師も冬の山住みの孤独を歌にしています。「さびしさに 耐へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里」(私のように寂しさに耐えている人が他にもいるといいなあ。いたら、その人と庵を並べて住もう、この冬の山里で。「新古今集」)
●歌の知識の深さや失敗談も「袋草紙」に記されています。彼の歌「袖ふれば 露こぼれけり 秋の野は まくりでにてぞ ゆくべかりける」の「まくりで(袖まくりの意味)」の表現を津守国基に非難されると、「古今六帖」巻5の歌「いかにして 恋を隠さむ 紅の やしほの衣 まくりでにして」をすぐさま証拠にあげて反論しました。また、「ほととぎす なが鳴く里の あまたあれば なほうとまれぬ 思ふものから」(ほととぎすよ、何しろお前が行って鳴く里が多いものだから、私はお前を愛しているはいるのだが、やはり、いやになってくるよ。「古今集」相手の浮気をほととぎすになぞらえて非難した歌。)の「汝(な)が鳴く」を「長鳴(ながな)く」と勘違いした良暹は、「宿近く しばしなが鳴け ほととぎす 今日のあやめの 根にもくらべよ」という歌を詠み、同席の懐円法師に「ホトと鳴き初めて、ギスとながむるにや」とあきれられました。そこで「古今集」の歌を証拠として持ち出し、かえって勘違いをみんなに笑われたというのです。 |
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●父親は分かりませんが、一説には比叡山の僧といわれ、良暹法師も比叡山の僧侶でした。 |
●祇園別当(祇園社の管理者)の宮司でもありました。祇園社は現在の八坂神社のことです。 |
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●晩年には、北区紫野にある雲林院に住みました。桜や紅葉の名所として知られ、平安時代の物語や歌に取り上げられています。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「さびしさに」の歌碑は、亀山公園にあります。 |
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