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後京極摂政前太政大臣
(ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん。1169年~1206年)
本名は藤原良経(よしつね)。祖父は76番・法性寺忠通(ただみち)、関白藤原兼実(かねざね)の次男というエリートの家系で育ちました。叔父は95番・慈円法師です。幼少期から学才をあらわした早熟の天才で、詩文、書道にも優れていました。2歳年上の兄・良通と兼実邸に同居し、詩文の会を多く催しました。元暦2年(1185)後半からは祖父・父・叔父の影響を受けて和歌の会も併せて催すようになりました。兄が22歳で急死したため九条家を継ぎ、和歌に没頭するようになります。10代の頃の歌が「千載集」に7首も載せられています。83番・藤原俊成から和歌を学び、その子、97番・定家と切磋琢磨しながら、御子左家(みこひだりけ)の後見人として、87番・寂蓮法師、98番・藤原家隆、藤原隆信など、新進の歌人を育てました。俊成を判者とした「六百番歌合」を主催しています。建久6年(1195)に内大臣となりましたが、翌年、反兼実派によって父とともに朝廷から追放(建久七年の政変)されてしまいます。その4年後に左大臣として政界復帰を果たし、元久元年(1204)には従一位太政大臣になりました。99番・後鳥羽院に信頼され、「新古今集」の撰者の一人として仮名序(かなじょ)を書きましたが、ほどなく、38歳で自宅で就寝中に急死しました。死因については暗殺(刺殺)説もありますが、兄と同じように病気であったと推測されています。その書風は、のちに「後京極流」と呼ばれました。号を秋篠月清(あきしのげっせい)といい、家集として「秋篠月清集」があります。 |
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●「さくら咲く 比良の山風 ふくままに 花になりゆく 志賀のうら浪」(桜の咲く比良の山の、山風の吹くままに、その花が散って来て、まるで花になっていくような、志賀の浦波よ。「千載集」)
●「み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春は来にけり」(吉野は山までもかすんで、昨日までの白雪の降り積もっていた里に春は来たことだなあ。「新古今集」の巻頭を飾った春の歌です。)
●「うちしめり 菖蒲ぞかをる ほととぎす 鳴くや五月(さつき)の 雨の夕暮」(あたりの空気も湿って菖蒲がひときわ香り立っている、ほととぎすが鳴く5月の雨の夕暮れよ。「新古今集」)
●「人住まぬ 不破(ふは)の関屋(せきや)の 板びさし 荒れにし後は ただの秋風」(今は住む人のない不破の関屋、その板ぶきのひさしが荒れてしまった後は、ただ寂しく秋の風が吹くばかり。「新古今集」)
●「きのふまで 蓬(よもぎ)に閉ぢし 柴(しば)の戸も 野分に晴るる 岡の辺の里」(昨日まで生い茂る蓬に隠れていた草庵の柴の戸まで、今ありありと見通せる野分の後の晴れ渡った岡の辺の里よ。「六百番歌合」台風一過のさわやかさを詠んだ歌です。)
●「ゆくすゑは 空もひとつの 武蔵野(むさしの)に 草の原より いづる月影」(分けていく果ては空も一つになって見える広々とした武蔵野の草原に、今昇る月の光よ。「新古今集」)
●「消えかへり 岩間に迷ふ 水の泡(あは)の しばし宿借(か)る 薄氷(うすごほり)かな」(消えそうになっ、岩の間にさまよっている水の泡が、しばらく宿を借りる薄氷であることよ。「新古今集」)
●「いく夜われ 波にしをれて 貴船川(きぶねがは) 袖に玉散る もの思ふらむ」(いったいいく晩私は貴船川の波にぬれて明神にお参りし、袖に涙の玉を散らしつつ、魂を乱して物思いをするのだろうか。「新古今集」)
●「ふるさとは 浅茅(あさじ)が末に なり果てて 月に残れる 人の面影」(故郷は浅茅の生えている野のはてになってしまって、ただ月に残っている亡き人の面影よ。「新古今集」)
●「春霞(はるがすみ) かすみし空の 名残さへ 今日を限りの 別れなりけり」(春霞が、亡き母の煙とともにかすんだ、あの空の名残りまでも、今日を最後とする別れであることだ。「新古今集」春の終わりと同時に、四十九日の母の喪を終える定家の心になって詠んだ歌で、定家に贈られました。) |
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●「十訓抄」「古今著聞集」などには、良経が「朝眠遅覚不開窓」という詩句を作った後、眠ったまま突然亡くなられたという逸話を伝えています。叔父の慈円はその死を「やうもなく寝死にせられにけり」(死ぬような気配もなく寝ている間に死んでしまった)と記しています。若き日の良経に和歌を教えた仲であり、政変を共に乗り越えてきた肉親として、深く悲しみました。また、「十訓抄」には、民をいつくしむ政治の一例として「おほふべき 袖こそなけれ 世の中に 寒けき民の 冬のよなよな」(「秋篠月清集」)という良経の歌を挙げています。
●源平の争乱のさなか、王朝文化の理想を追い求めた勅撰集といわれる「新古今集」ですが、良経は和歌をなかだちとして、97番・定家や98番・家隆など、さまざまな人々を99番・後鳥羽院の下に引き寄せた人物です。後鳥羽院は良経を信頼し、その歌を評して「故摂政は、たけをむねとして諸方を兼ねたりき」と述べ、その歌風の特色を「たけ」(心がまえの大きい気品のある美しさ)にあると述べ、さらには、特別に力んだ目立つ言葉などはないのに、どの歌にも深い由緒があるように見えるのは不思議というほかないと、その才能をたたえています。承久の乱(1221)に敗れて隠岐国に流された後鳥羽院は、改めて1600首を撰び直した隠岐本「新古今集」を完成させましたが、その序を記したのは良経でした。
●「み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春は来にけり」(吉野は山までもかすんで、昨日までの白雪の降り積もっていた里に春は来たことだなあ。)は、「新古今集」の巻頭を飾った春の部の名歌ですが、春の部の結びの歌も、同じく良経の「明日よりは 志賀の花園 まれにだに たれかは訪(と)はん 春の故郷(ふるさと)」(明日からは、この旧都志賀の桜の花園を、まれにでも誰かが訪ねてこようか、去っていく春の故郷となって。)です。古く大和時代に離宮のあった早春の吉野の里で始まり、晩春の志賀の旧都(天智天皇の都)を詠んだ歌でしめくくるという見事な構成になっています。 |
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●祖父は76番・法性寺忠通(ただみち)、関白藤原兼実(かねざね)の次男というエリートの家系で育ちました。兄が22歳で急死したため九条家を継ぎ、和歌に没頭するようになりました。 |
●83番・藤原俊成から和歌を学び、その子、97番・定家と切磋琢磨しながら、御子左家(みこひだりけ)の後見人として、新進の歌人を育てました。俊成を判者とした「六百番歌合」を主催しています。 |
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●「み吉野は 山もかすみて 白雪の ふりにし里に 春は来にけり」(吉野は山までもかすんで、昨日までの白雪の降り積もっていた里に春は来たことだなあ。)は、「新古今集」の巻頭を飾った春の部の名歌です。 |
●38歳で自宅で就寝中に急死しました。叔父の慈円はその死を「やうもなく寝死にせられにけり」(死ぬような気配もなく寝ている間に死んでしまった)と記し、政変を共に乗り越えてきた肉親として、深く悲しみました。 |
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