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大納言公任
(だいなごんきんとう。966年~1041年)
藤原頼忠(よりただ)の長男で、藤原公任(ふじわらのきんとう)です。四条の大納言と呼ばれました。12歳の時に父が関白太政大臣に、翌年姉の遵子(じゅんし)が円融天皇の中宮として入内し、一門は栄華を極めました。15歳で臣下として初めて宮中清涼殿で元服式を行うという華やかさでした。ところが、21歳の時、藤原兼家が摂政になると、その息子(道隆・道兼・道長)に権勢が移り、公任の昇進は遅れがちになります。しかし、名門の跡取りとしてプライドの高い人でしたので、ライバルの藤原斉信(ただのぶ)が自分より高い位についた時には、7カ月も出仕しなかったばかりか、道長に辞表まで出して不満を示しました。結局、辞表は却下され、昇進が決まったといいます。非常に博学多才で、有職故実(ゆうそくこじつ)にも詳しかったそうです。「大鏡」によると、道長が大堰(おおい)川で舟遊びをした折、漢詩・和歌・管絃と3つの船を浮かべてその道の達人を乗せることになりました。公任はいずれも優れていたので、どの船に乗るか注目の的であったという話は有名です。「一事のすぐるるだに、かくいづれの道もぬけ出でたまひけむは、いにしへもはべらぬことなり」(一事に優れているということでさえ容易なことではないのに、ましてや、このようにどの道にも優れていらっしゃることは、昔にもないことです。)とほめたたえています。「三船(さんせん)の才」(漢詩・和歌・管絃の3つの才能を兼ね備えていること:三舟(さんしゅう)の才ともいう。)という言葉はこの逸話から生まれたものです。「和漢朗詠集」「三十六人撰」「新撰髄脳(しんせんずいのう)」「和歌九品(わかくほん)」など多くの編著書があり、歌人としても歌学者としても一流であったと言われています。彼が「三十六人撰」で歌人を選定したことで、三十六歌仙という呼び方が広まりました。60歳を前にして2人の娘を次々と亡くしたことが大きな痛手となり、正二位権大納言の官職を辞任して出家し、76歳で病死しています。 |
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●「小倉山 あらしの風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき」(小倉山と嵐山からの山風が寒いので、紅葉した落ち葉が体に散りかかり、錦の衣を着ない人は一人もしない。「大鏡」によると、道長が「かの大納言(公任のこと)、いづれの船にか乗らるべき」と言うと、公任は和歌の船に乗ってこの歌を詠んで評判になりました。ところが公任は「漢詩の船を選べば、もっとすばらしい詩を作ったのに」ともらしたそうです。)
●「春来てぞ 人も訪(と)ひける山里は 花こそ宿の 主なりけり」(春になって客がたくさん訪れた、この山里にある私の宿の主人は、この私ではなくて、桜の花だったのだな。「拾遺集」北白川の公任の山荘に人々が桜を見に来た時に詠んだ歌です。)
●「うれしくも 桃の初花 見つるかな また来む春も さだめなき世に」(嬉しいことに桃の初花を見たなあ。再び訪れる春に会えるかどうか、運命は定かでないこの世にあって。「公任集」)
●「うき世をば 峰の霞や へだつらむ なほ山里は 住みよかりけり」(辛いことばかり多い現世を、峰の霞が隔ててくれるのだろうか。やはり山里は住みよいところだなあ「千載集」貴族の山荘が多かった粟田に行った時の歌です。)
●「朝まだき 嵐の山の さむければ 紅葉の錦 きぬ人ぞなき」(早朝、嵐の吹く嵐山が寒々としているので、木々は色様々の紅葉を盛んに散らせ、その美しい錦衣(きんい)を着ない人とてない。「拾遺集」嵐山の法輪寺に参詣した後の作です。)
●「いづかたに 秋のゆくらん 我が宿に こよひばかりの 雨やどりせよ」(どこへ秋は去ってゆくのだろう。私の家で、今夜だけでも雨宿りして行ってくれよ。「金葉三奏本」歌題は「雨のうちに迎える晩秋九月末日」ということで、秋を惜しむ歌です。)
●「紫の 雲とぞ見ゆる 藤の花 いかなる宿の しるしなるらむ」(この藤の花が紫の雲かとも見えるほど美しく咲き誇っているのは、この家にどのような吉事が起こる前ぶれなのであろうか「拾遺集」屏風歌です。「今昔物語集」巻24には、彰子入内の屏風歌を道長から依頼された公任が、藤の花を紫雲に見立てて、藤原氏の繁栄を祝う歌を殿上で披露し、人々の称賛を浴びた様子が描かれています。) |
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●公任の人柄については、「大鏡」に「世にはづかしく心にくき覚えおはす」(たいそう人柄がご立派で深みがある方という評判がおありです)とか、「人がらしよろづによくなりたまひぬれば」(もともと人柄が万事にわたって立派に洗練されていらっしゃると世間からみられていましたので)とあります。公任の妹が円融天皇の中宮に立てられた時、同じく中宮候補だった藤原兼家の娘は先を越されてしまいました。兼家の邸の前を通る時、すっかりいい気分になった公任は「こちらの女御はいつになったら后にお立ちになられるのだろう」と嫌味を言ってしまいますが、後日、自分の失言を後悔し、世間から非難されることはなかったそうです。
●公任が歌壇の第一人者として有名であったことがわかるエピソードが「枕草子」に記されています。2月末の雪が少しちらつく日、62番・清少納言のもとに「少し春ある 心地こそすれ」(少し春があるような気持ちがする)と書いた手紙をが届きました。この下の句にあう上の句をつけて返しなさいという意味です。差出人が公任ということでいい加減な歌は返せません。「空寒み 花にまがへて 散る雪に」(空が寒いので花に見まがうばかりに降る雪に)と震える手で書いて渡したと記しています。実は2人とも「白氏文集(はくしもんじゅう:白楽天の漢詩文集)」の句をふまえて和歌を作っています。清少納言は漢詩の教養を公任に試されたわけです。公任は清少納言だけでなく、56番・和泉式部、59番・赤染衛門、馬内侍、57番・紫式部といった女流歌人とも歌を詠み交わしています。
●「紫式部日記」によると、道長の娘・彰子が皇子を生んだ祝賀の夜、公任が出席するというので、紫式部は特別に緊張して歌を用意し、いざという時に備えたりしています。また、宮中の宴会で、女房のいる御簾(みす)の前まで公任がやってきて、「このあたりに若紫(わかむらさき)はおりますか」と声をかけます。若紫とは、「源氏物語」に出てくる紫の上のことです。酒の酔いに任せて「源氏物語」の作者である紫式部をからかったのです。
●「俊頼髄脳(としよりずいのう)」にも公任についての説話が記されています。公任が息子の64番・定頼に「和泉式部と赤染衛門と、歌人としてはどちらが優れているか」と質問されて、和泉式部は「いと、やんごとなき歌よみなり」として、その歌をほめた話が紹介されています。世間で評判の良い和泉式部の「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端(は)の月」より、「津の国の こやとも人を いふべきに ひまこそなけれ あしの八重(やへ)ぶき」が優れている理由について、その発想の素晴らしさは、凡人では考えつかないとほめています。源俊頼が、評論家でもあった父の公任をいかに尊敬していたかが分かります。
●「栄花物語」によると、出家した公任の山荘に、藤原斉信が訪れたことが記されています。出世を争った2人ですが、同じように娘を道長の息子に嫁がせながら亡くしています。その悲しみを公任に語り、出家の決心も付かない真情を打ち明けたといいます。公任は自らの経験を語って斉信を慰め、2人して泣き続けたそうです。 |
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●四条西洞院バス停付近は、平安中期に関白頼忠の邸宅になり、子の公任が育った四条宮跡と伝えられています。発掘調査で園池跡が発見されています。 |
●多芸多才ぶりから光源氏のモデルとも言われました。漢詩・和歌・管弦のいずれにも才能を発揮したことは、「三船の才」の説話として語られました。その舞台が嵯峨嵐山です。 |
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●歌人としても歌学者としても一流であったと言われています。彼が「三十六人撰」で古今の優れた歌人を選定したことで、三十六歌仙という呼び方が広まりました。写真は今宮神社拝殿に掲げられた三十六歌仙の額です。 |
●藤原頼通と公任が春秋の花のどれが優れているかと論じ合ったことがあります。春は桜、秋は菊が一番とした頼通に対して、公任は春の夜明けの紅梅は捨てがたいと主張しました。 |
●万寿3年(1026年)正月4日、弟の最円がいる洛北長谷の解脱寺で出家した公任は、北に1町ほど離れた山荘で15年間の隠遁生活を送りました。この地を「朗詠谷(ろうえいだに)」といい、長谷川に沿った飛騨池のかたわらに「朗詠谷」の石碑が建っています。石碑の裏には公任の歌「谷風に なれすといかが おもふらん 心ははやく すみにしものを」(後拾遺集)が刻まれています。 |
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