プロフィール 西行法師

西行法師
(さいぎょうほうし。1118年~1190年)

 俗名を佐藤義清(のりきよ)と言い、有能な北面の武士(御所の北側に詰めて天皇を護る近衛兵)として鳥羽天皇に仕え、従五位下左衛門尉でした。家は俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)の流れをくむ名門で、若くして武家官人のエリートコース、北面の武士として、御所の警備や院の御使に奉仕しました。同僚には平清盛がいます。ところが、23歳の時に妻と2人の子、職を捨てて出家し、当時の人々を驚かせました。京都・嵯峨のあたりに庵をかまえ法名を円位(えんい)と名乗り、後に西行と号しました。出家後は、京都周辺を転々としながら、やがて高野山に入って30年近く暮らした後、59歳の時に伊勢の二見に移住しました。また、陸奥(東北地方)や四国・中国の旅という生涯3度の大旅行では数々の歌を詠み、漂泊の歌人として知られます。保元の乱で敗れた77番・崇徳院とは深い信頼関係にあり、崇徳院が幽閉された仁和寺に駆けつけ、配流先の讃岐にも歌を送っています。仁安3年(1168)51歳の時には崇徳院の霊を鎮めるために讃岐に旅立っています。69歳の時には、源平の争乱で焼失した東大寺の再建に必要な寄付集めのために東北地方へ旅しました。(その時、うわさに聞いた51番・藤原実方の墓を訪ねて歌を詠んでいます。)その途中に鎌倉で源頼朝と対面し、弓馬や和歌の道について質問されています。頼朝は西行に銀の猫を贈ったそうです。晩年になっても「二見浦百首」「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」「宮河歌合」など歌合や奉納を企画しました。文治6年(1190)2月16日、願っていた釈迦の涅槃の日に、河内国の弘川寺で亡くなりました。「新古今集」には作者別として一番多く94首入っています。また、お互いに尊敬しあい、歌友として長く交際を続けていた83番・俊成が編纂した「千載和歌集」には、俊成に次いで18首選ばれています。叙情豊かな和歌と人間像は、後世の歌人に強い影響を与えました。家集に「山家集」「西行上人集」「聞書集」があります。また、彼の一生は「西行物語絵巻」に詳しく語られています。
代表的な和歌
●「をしむとて をしまれぬべき この世かは 身をすててこそ 身をもたすけめ」(いくら惜しんだとて、惜しみとおせるこの世でしょうか。生きている間に身を捨てて出家してこそ、我が身を救い、往生することもできましょう。「玉葉集」鳥羽院に出家を願い出る時に詠んだ歌です。)
●「吉野山 去年(こぞ)の枝折(しを)りの 道かへて まだ見ぬ方の 花をたづねむ」(この吉野山で、去年、枝を折って印をつけておいた道を代えて、今年はまだ見ていない方向の桜を尋ねてみよう。「新古今集」)
●「願わくば 花の下にて春死なむ その如月の望月(もちづき)のころ」(願いがかなうならば、桜の花の下で春に死にたい、涅槃会(ねはんえ)の満月のころに。「山家集」歌の通り、文治6年(1190)2月16日に河内の弘川寺で亡くなった話は有名です。)
●「年たけて またこゆべしと 思ひきや 命なりけり 佐夜(さよ)の中山」(年老いて再び山越えができると思っただろうか。だが、こうして越えることが出来るのも、命があったからこそなのだなあ、この佐夜の中山越えは。「新古今集」この峠は東海道の三大難所の一つです。)
●「ほととぎす 深き峰より 出でにけり 外山(とやま)の裾(すそ)に 声の落ち来る」(ほととぎすは深い峰から出て来たことだ。今、人里近い山の麓に、その声が落ちて来るよ。「新古今集」)
●「くまもなき 折しも人を 思ひ出でて 心と月を やつしぬるかな」(月が一点の陰りもなく照っている折も折、あの人のことを思い出し、私の涙のせいで月を曇らせてしまったことだよ。「新古今集」)
●「知らざりき 雲井のよそに 見し月の 影を袂(たもと)に宿すべしとは」(思いもしませんでした。遠い空のかなたに見た月の光を、恋の涙にぬれた袂に宿すことになろうとは。)
●「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(感情を断っている出家の身の私にも、しみじみとした情趣が感じられる、鴫の飛び立つ水辺の秋の夕暮れは。「新古今集」の三夕の歌として有名です。)
●「道の辺に 清水ながるる 柳かげ しばしとてこそ 立ちとまりつれ」(道のほとりに清水が流れている、柳の木陰よ。ほんのしばらくと思って、立ち止まったのであったが。「新古今集」)
●「風になびく  富士の煙の 空に消えて ゆくへも知らぬ わが思ひなか」(風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ。「新古今集」の詞書 に「あづまのかたへ修行し侍りけるに、ふじの山をよめる」とあるのは、東大寺再建のための砂金勧進の旅です。「拾玉集」には「これぞわが第一の自嘆歌と申しし事を思ふなるべし」とあり、西行の自信作であったようです。)。
●「さびしさに 耐へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里」(私のように寂しさに耐えている人が他にもいるといいなあ。いたら、その人と庵を並べて住もう、この冬の山里で。「新古今集」)
エピソード
●99番・後鳥羽院は「後鳥羽院口伝」で西行ことを「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得(しょうとく)の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」と述べました。生まれついての天才で、凡人に真似のできるような詠みぶりではないとほめたたえています。
●西行の出家については、藤原頼長が自分の日記「台記(たいき)」に、「家富み、年若く、心に愁ひなきに」と書いたように、妻子や友人に恵まれ、裕福で前途も約束されていた西行の出家は、周囲の人々を驚かせ、その潔さが評判になりました。「源平盛衰記」には高貴な女性(鳥羽天皇の后)へのかなわぬ恋心を絶つためだとし、鎌倉時代の「西行物語」では、親友・佐藤憲康が一夜のうちに急死し、世の無常を感じたからだとしています。4歳のかわいい娘がいましたが、縁側から蹴落とて俗世への思いを断ち切った(「西行物語絵巻」)とか、実弟の養女にして後々まで気にかけていた(鴨長明「発心集」)などと記されています。
●火坂雅志の伝奇小説「花月秘拳行」、評論「西行 その聖と俗」には北面の武士(白河天皇が寺社からの強訴を防ぐために設立した私的な親衛隊)であり、武術の達人であった西行の側面が描かれています。西行の蹴鞠の師・藤原成通(なりみち)は武術の達人であり「早業」を身につけていたと思われる歌が「山家集」にあります。「武士(もののふ)の 馴らすすさびは 夥(おびだ)し あけとの退(しさ)り 鴨(かも)の入首(いりくび)」(武士が身につけている技はたくさんある。「あけとの退り」や「鴨の入首」など。)頓阿が書いた歌学書「井蛙抄(せいあしょう)」にも「荒聖(あらひじり)」と呼ばれた文覚が西行には手出しが出来なかった逸話が記されています。 
●鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や弓馬の道について問われ、流鏑馬(やぶさめ)の極意を教えた話が「吾妻鏡」に記されています。兵法書は出家の時に捨てて忘れた、和歌は折々の感動をただ三十一文字にして口に出すのみと答え、頼朝から拝領した純銀の猫を、通りすがりの子どもに与えてしまったと記されています。
●「今物語」の42話に西行の歌「鴫立つ沢」についての話があります。「千載集」が撰進されていると聞いて都に向かう途中、知人に会ったので、私が詠んだ「鴫立つ沢の秋の夕暮」の歌が入集しているかと尋ねたところ、入集していないと聞き、それでは上京しても何にもならないと言ってそのまま陸奥に引き返したというのです。この歌は次の「新古今集」で入集しました。
●松尾芭蕉は西行にあこがれ、その足跡を訪ねて「おくのほそ道」の旅に出ています。「十訓抄」「古今著聞集」にも多くの逸話が伝えられています。
●西行の庵跡や歌碑は全国各地に残っています。奈良の吉野山奥千本には出家して間もない20代半ば頃、3年間住んだと言われています。金峯(きんぷ)神社から山中を20分ほど入ったところにあります。西行像が安置されている西行庵の周辺には、吉野山で詠んだ歌碑が建てられています。 ●西行は旧作の秀歌を歌合に組んだ「御裳濯河(みもすそがわ)歌合」の加判を親友の83番・俊成に依頼していますが、これは伊勢神宮に奉納したものです。御裳濯河とは内宮を流れる五十鈴川 (いすずがわ) のことです。 ●77番・崇徳院とは深い信頼関係にあり、崇徳院が幽閉された仁和寺に駆けつけ、配流先の讃岐にも歌を送っています。
●治承元年(1177)には伊勢国二見浦に移りました。夫婦岩の見える海岸に西行の歌碑「波越すと 二見の松の 見えつるは 梢にかかる 霞なりけり」(波が越える、二見が浦の松も、と見えたのは、こずえにかかりなびくかすみであったよ。)があります。 ●二見での庵は安養寺跡の可能性が高いとされています。この地で数年住んだ後、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)に住みし、建久元年(1190)にこの地で亡くなりました。 ●西行が77番・崇徳院の白峯御陵を訪れたときに通ったとされる青海(おうみ)神社から白峯御陵までの参道は「西行法師の道」と名づけられ、崇徳上皇と西行の歌を刻んだ歌碑があります。(香川県坂出市)