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儀同三司母
(ぎどうさんしのはは。940年~996年頃)
従二位式部卿高階成忠(たかしななりただ)の娘で、名前を貴子(たかこ・きし)と言います。漢詩文に優れた才能を発揮し、円融天皇に仕える高内侍(こうのないし)と呼ばれる女官でしたが、中関白・藤原道隆(なかのかんぱく・ふじわらのみちたか)に愛されて正妻となりました。没落貴族から身を起こした貴子はしっかりした性格で、一族を内側から支えた人でした。伊周(これちか)、隆家(たかいえ)、定子(ていし)ら、7人の子どもを生み育て、伊周が内大臣、娘・定子は一条天皇の中宮になるなど栄華を極めました。ところが、長徳元年(995年)4月10日に夫・道隆が病死すると、幸せな暮らしは暗転します。中関白家の当主として伊周はまだ22歳、夫の弟・道長に権勢を奪われてしまいます。翌年の夏、伊周、隆家は、花山院に矢を射掛けた罪(長徳の変)によって失脚します。伊周は筑紫(つくし:九州)大宰府へ、隆家も出雲へ左遷と決まります。貴子は配流となる伊周のあとを追って、せめて播磨までとついて行きますが、山崎から戻されて都に戻ると、定子はすでに出家していました。変わり果てた娘の姿を見て、貴子は大声で泣いたといいます。まもなく病となり、息子を心配しながら半年足らずで亡くなってしまいました。長徳2年10月末、40代であったと推定されます。伊周は母の一周忌が過ぎた頃、赦されて京に戻り、大臣に准ずる待遇にまで復権を果たします。儀同三司は大臣に准ずる准大臣(じゅんだいじん)のことで、三司(太政大臣・左大臣・右大臣)と儀が同じという意味です。中関白とは、道隆の父・兼家(かねいえ)も弟の道兼(みちかね)も関白になったことによる呼び名です。 |
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●「ひとりぬる 人や知るらむ 秋の夜を ながしと誰か 君につげつる」(秋の夜が長いことは独り寝する人が知っているでしょう。独り寝されたはずのないあなたは秋の夜が長いと、誰からお聞きになったのですか。「後拾遺集」道隆が作者の家に通いはじめた頃に詠んだ歌です。道隆が「昨夜は明けるまでひどく長く感じたよ。」と言ってきたのに対して詠んだ歌です。)
●「夢とのみ 思ひなりにし 世の中を なに今さらに おどろかすらむ」(あなたとの仲は、はかない夢だった、すっかりそう思うようになっていたのに、どうして今更目を覚ますようなことをするのでしょうか。「拾遺集」長く途絶えていたところへ中納言平惟仲が突然手紙を送って来たことに対する返歌です。)
●「夜のつる 都のうちに こめられて 子を恋ひつつも なきあかすかな」(夜の鶴は籠(かご)の中で子を思って鳴いたというけれど、私は都の内に足止めされて、子を恋い慕いながら泣き明かすのだなあ。「詞花集」の詞書に「帥前内大臣、明石に侍りける時、こひかなしみて病になりてよめる」とあります。作者の子・伊周が、道長との権力争いに敗れ、花山院への不敬事件などから、996年4月、大宰権帥に左遷が決まりましたが、道長の取り計らいにより明石での滞留を許可されました。その時子どもを恋い慕い病になって詠んだ歌です。伊周は翌年都に召還されましたが、その時作者はすでに亡くなっていました。) |
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●「古今著聞集」によると、道隆との関係に父の成忠は初め乗り気ではなかったのですが、ある朝、帰って行く道隆の後ろ姿を見て、「必ず大臣に至る人なり」と言って二人の仲を許したといいます。道隆は宮廷の中でも一番の美男子と言われ、冗談が好きな明るい性格の貴公子だったようです。正妻の貴子意外にも、赤染衛門の姉妹など、いろいろな女性との恋のうわさがありました。
●「大鏡」では、貴子について「まことしき文者(もんざ)にて、御前(おまへ)の作文(さくもん)には、文(ふみ)奉られしはとよ。少々の男にはまさりてこそ聞えはべりしか。」(本格的な漢詩人で、清涼殿のご詩宴のさいには、詩を奉られたということですよ。いいかげんな男子よりずっと優れているという評判でした。)と記し、「女のあまりに才(ざえ)かしこきは、ものあしき」(女があまり学問に優れているのは、よくない)という世間のうわさを、中関白家の没落の原因に結びつけて語っています。
●「栄花物語」でも、貴子は女性ながら漢字などもよく書くので内侍にされたこと、息子の配流事件で失意のうちに亡くなった様子が描かれています。伊周が恋した女性の家に夜な夜な通う男を不審に思い、兄弟で待ち伏せして矢を射たところ、それは先の天皇・花山院でした。花山院は女性の妹のもとに通っていたのです。この事件は、時の権力者・藤原道長によって謀反の疑いをかけられ、栄華を極めた一族は失脚してしまいます。 |
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●夫婦仲も良く、三男四女に恵まれ、幸福の絶頂であった貴子ですが、夫の道隆が病死すると、次々と不幸が訪れます。息子たちは道長との政争に敗れ、九州の大宰府や出雲へ左遷されました。※写真は出雲大社 |
●貴子は息子・伊周について行くことを願いますが許されず、10月末、失意のうちに病没しました。籠の中で子を思って鳴く夜の鶴に、わが身を重ねた歌を「詞花集」に残しています。 |
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●心労の日々を送った娘の定子は、一条天皇の第二皇女を出産後亡くなります。鳥辺野は平安期からの葬送池・墓地として知られていました。東山の一峰、阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)に至る石畳の階段と坂道が続いた奥に定子が眠る一条院定子鳥辺野陵があります。 |
●定子の葬送の日、大雪の中を歩いて従った兄・伊周が詠んだ「誰もみな 消えのこるべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき」の歌が残っています。鳥辺野陵からは京都タワーをはじめ京の街並が見下ろせます。 |
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