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法性寺入道前関白太政大臣
(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだいじょうだいじん。1097年~1164年)
摂政関白藤原忠実(ふじわらのただざね)の息子、藤原忠通(ふじわらのただみち)です。25歳で関白となり、氏の長者(一族の長のこと。藤原氏の総帥)として、太政大臣従一位に至りました。関白を3度、太政大臣を2度、摂政を3度も歴任した大政治家です。幼い頃から和歌を好み、温厚で、詩歌や書道、管弦にも才能を示しました。異母弟の頼長(よりなが)を愛する父と不仲になり、保元の乱の時には後白河天皇側につき、題詠を命じた77番・崇徳天皇とは敵同士として戦います。崇徳上皇とその弟の後白河天皇の権力闘争、また忠通と頼長兄弟の藤原家の家督争いに、当時勢いを持ちはじめた源氏と平家の武士勢力が二手に分かれて戦ったのです。結局、先手を打った後白河天皇と忠通側が勝利し、崇徳上皇は讃岐に流され、頼長は戦死しました。父の忠実については、忠通が親不孝をするつらさを述べて、配流の罪を軽くしたといいます。この乱の恩賞として藤原一族で一番えらい「氏長者(うじのちょうじゃ)」と呼ばれるようになりました。しかし、可愛がられていた崇徳天皇ではなく後白河天皇側についたことで思うところがあったのでしょう。晩年には出家して政治を離れ、法性寺(京都の東山)のそばにある別荘に住んだので、「法性寺殿」と呼ばれました。75番・藤原基俊や74番・源俊頼の支援者として院政期の歌壇を盛り上げ、自邸に歌人を集めて歌合や歌会を開きました。「金葉集」以下の勅撰集に69首入集。漢詩集「法性寺関白集」、日記「法性寺関白記」、家集「田多民治(ただみち)集」があります。さらに、古典から当代までの歌合を集成して、後世に伝えるための大事業「二十巻本類聚(るいじゅう)歌合」を完成させました。一部は失われましたが国宝として現存しています。95番・慈円は6番目の息子です。 |
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●「吉野山 峰の桜や 咲きぬらむ 麓の里に にほふ春風」(吉野山の峰の桜が咲いたのだろうか。麓の里に吹いてくる春風は、花の気(け)に満ちている。「金葉集」)
●「六月(みなづき)の 照る日の影は さしながら 風のみ秋の けしきなるかな」(真夏の太陽の光が射してはいるけれども、風ばかりは秋の気配を感じさせることよ。「田多民治集」(忠通集)立秋の日に源俊頼に贈った歌です。俊頼の返しは「おのづから 萩女郎花 さきそめて 野辺もや秋の けしきなるらん」
●「思ひかね そなたの空を ながむれば ただ山の端(は)に かかる白雲」(恋しい思いに堪えかねて、あなたのいる方角の空を眺めると、ただ山の稜線に白雲がかかっているのが見えるだけです。「詞花集」79番・藤原顕輔が近江守であった時、遠い郡へ赴任することになり、便りに付けて贈った歌です。)
●「あやしくも わがみ山木の もゆるかな 思ひは人に つけてしものを」(不思議なことに、このわが身が深山木(みやまぎ)の薪(たきぎ)よろしく燃えるものよ。「思ひ」の火は、あの人に点けたというのに。「詞花集」恋の歌です。)
●「さざなみや 国つ御神(みかみ)の うらさえて 古き都に 月ひとりすむ」(ああ、かつて楽浪(さざなみ)と呼ばれた国、さざ波の寄せる近江の国の神様のお心も今は冷えきり、寒々とした湖の入江のほとり、荒れ果てた旧都の跡には、ただ月だけが澄んでいる。「千載集」かつて1番・天智天皇は近江大津宮に遷都しました。)
●「来ぬ人を 恨みもはてじ 契りおきし その言の葉も なさけならずや」(来てくれなかった人を、最後まで恨み通すことはやめましょう。手紙で逢おうと約束してくれただけでも、あの人なりのせめてもの情けだったのだわ。そうじゃないかしら。「詞花集」約束したのに恋人が訪れなかった時の思いを、女の立場で詠んだ歌です。)
●「風吹けば 玉ちる萩の 下露に はかなく宿る 野べの月かな」(風が吹くと玉がこぼれるように散る萩の下葉の露にはかなく宿る野べの月の光であるよ。「新古今集」)
●「秋の月 高嶺の雲の あなたにて 晴れゆく空の 暮るる待ちけり」(秋の月は、高山の頂にかかる雲の彼方にあって、しだいに晴れてゆく空が暗くなるのを待っているのだった。「千載集」) |
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●当代一番の「手書き(能書家)」として「昔の上手(三賢:書道における小野道風・藤原佐理・藤原行成)にもはぢずおはしましけり」といわれ、最勝寺の額や大内裏の諸門の額を書きました。その書は贈物や手本として尊重されました。書道の流派「法性寺派」は忠通から発しました。
●75番・藤原基俊から息子の栄達を何度も頼まれ、「しめぢの原」と答えました。清水観音の託宣歌「なほ頼め しめぢが原の させも草 わが世の中に あらむかぎりは」を借りて、私を信じて任せなさいと、とっさに回答するあたり、忠通の素養と機知が感じられます。ただ、息子の任官の願いはかなえられず、基俊からは「契りおきし」の嘆きの歌が届きました。 |
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●忠通は能書家でした。異母弟を愛していた父・忠実とは不仲でしたが、忠通が小筆で大字を書いた4枚の屏風を見て、「これは大切な宝である」と感服したそうです。 |
●75番・基俊から息子の昇進を頼まれると、とっさに清水観音の託宣歌を借りて「任せておきなさい」と応えたあたり、機転の利く人物だったようです。 |
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●200年前、藤原氏の長であった貞信公(忠平)が手植えしたなつめが、たぐいない名木として花山院に残っていました。忠通はその正門前で行列を馬からおろし敬意を示しました。なつめは、初夏に淡黄色の花をつけ、暗紅色の実をつけます。 |
●雄大な歌を詠む一方で、風にこぼれる萩の下葉の露に目を向けた繊細な秋の歌も残してています。「風吹けば 玉散る萩の 下露に はかなく宿る 野べの月かな」 |
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