プロフィール 中納言朝忠

中納言朝忠
(ちゅうなごんあさただ。 910年~966年)

 25番・三条右大臣定方(さだかた)の5男、藤原朝忠(ふじわあのあさただ)です。和漢の学に優れ、出世も順調で、左中将、参議を経て従三位中納言にまで昇進しました。土御門(つちみかど)中納言または堤中納言と号しています。父・定方とともに三十六歌仙に数えられました。「天徳内裏歌合」では6番中5勝していますし、屏風歌や祝賀の歌など、晴れの歌の名手としても知られています。また、笙(しょう)や笛の名手としても有名です。醍醐・朱雀・村上の三代の天皇に仕えて信頼も厚く、内裏が焼けた後の再建に貢献しました。地位も名誉も風流も兼ね備えた評判の貴公子だけあって、38番・右近、大輔、本院侍従など宮廷女性との機知に富んだ恋愛贈答歌が残っています。43番・敦忠(あつただ)とはほぼ同時代を生きた貴公子同士で、敦忠との恋仲がうわさされた右近は、朝忠の恋人だったこともあると伝えられています。57歳で亡くなった後、家集「朝忠集」が編まれましたが、歌の順序をかえて筆を加えてあるのは、歌物語の主人公として魅力的な人物であったからでしょう。
代表的な和歌
●「桜花 うゑて我のみ 見むとかは 隣りありきも ひとやするとて」(桜を植えて私一人が見ようなどとは決して思っていません。隣の方が、もしや、そぞろ歩きに訪ねてくださるのではないかと期待しているのです。「後撰和歌集」によると朝忠邸には見事な桜の樹があり、隣家まで盛んに散り移っていたそうです。その女主人伊勢との贈答歌から二人の親しさがわかります。)
●「わが宿の 梅が枝に鳴く 鶯(うぐいす)は 風のたよりに 香をや尋(と)めこし」(私の居る家の梅の枝で鳴く鶯は、風の案内によって香を求めてやって来たのだろうか。「玉葉集」)
●「時しもあれ 花のさかりに つらければ 思はぬ山に 入りやしなまし」(時もあろうに、花の盛りの今にあって、あなたの心がつれないので、思いもしなかった山に入ろうかとも思います。「後撰集」の詞書には小弐という女房に贈った歌です。山に入る、とは出家することです。)
●「人づてに 知らせてしがな 隠れ沼(ぬ)の みごもりにのみ 恋ひやわたらむ」(人を通して知らせたいものだ。ひっそりとした沼のように、思いを胸に秘めたまま恋し続けるのだろうか。「新古今集」)
●「世の中は ただ今日のごと 思ほえて あはれ昔に なりもゆくかな」(現実とは、たった今、この日この時の出来事のように思えて、ああ、たちまち昔のことになってゆくのだ。「続千載集」)
エピソード

●「大和物語」に人妻との恋と別れの話があります。人目をしのんで逢い続けていましたが、その女の夫が地方の国の守になって任地に下って行くことになりました。その日に「たぐへやる わがたましひを いかにして はかなき空に もてはなるらむ」(あなたといっしょにいさせておいた私の魂をうち捨てて、どうしてあなたは、すがるすべもない遠い旅の空に、離れておいでなのでしょうか)という歌を贈りました。
●「百人一首夕話」には、朝忠が大男の大食漢で、立つことも座ることも苦しいほど太っていたという話が記されています。これは「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」にある「三条中納言水飯(すいはん)事」が出典と思われます。「冬は湯漬け、夏は水漬けを食べれば痩せられる」と医者に言われたのですが、何度もおかわりをするので効果がなかったという話です。ところが、ここで語られる三条中納言は藤原朝成のことで、朝忠が肥満体であったというのは作者のかん違いのようです。
●朝忠は笙の名手でした。笙は長短17本の竹管を壺(つぼ)に立てた楽器で、吹口から吹いたり吸ったりして音を出します。 ●天徳五年正月、内裏仁寿殿(じじゆうでん)で行われた宴では、弟の朝成とともに琴・箏・和琴・琵琶・笙の合奏に参加しています。
●朝忠の邸は土御門大路沿いにあったため、土御門中納言と呼ばれました。後に、朝忠の孫娘を正室とした藤原道長がこの土御門第に住みました。京都御苑の大宮御所の上あたりです。 ●「後撰和歌集」によると朝忠邸には見事な桜の樹があり、隣家まで盛んに散り移っていたそうです。