プロフィール 藤原基俊

藤原基俊
(ふじわらのもととし。1060年~1142年)

 関白・藤原道長のひ孫で、父は右大臣俊家(としいえ)という名門藤原北家の出身ですが、23歳で父を亡くすと官を解かれました。昇進には恵まれず、従五位上・左衛門佐(さえもんのすけ)で終わっています。初めて晴れの和歌行事に参加できたのは46歳で、「堀河院御時百首和歌」です。和歌や漢詩の才能に優れ、鳥羽朝に入ると、多くの歌合で作者・判者となり、74番・源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍しました。基俊は自負心の強い学識派の人だったらしく、才能を鼻にかけるところがあったようです。伝統的な歌風を重んじる保守派の立場なので、革新派の俊頼とは激しく対立し、見下す態度をとっていたようです。76番・藤原忠通とは親しい間柄であったらしく、贈答歌がいくつか残っています。忠通は、基俊と俊頼、2人の歌の力を認めて、同時に判者に招いて評の違いを楽しむところがあったようです。書道、漢字にも造詣が深く、「万葉集」に訓点をつける作業にも加わりました。「新撰朗詠集」の撰者です。80代の頃、25歳の83番・藤原俊成が弟子入りしていますが、「古今集」など伝統的な和歌の重要性を教えました。家集「基俊集」があります。晩年に出家し83歳で亡くなりました。
代表的な和歌
●基俊「手を折りて 経(へ)にける年を かぞふれば あはれ八十路(やそぢ)に なりにけるかな」(指を折って過ぎてきた歳を数えてみれば、ああもう80歳になったのだなあ。「基俊集」にある忠通との贈答歌です。
忠通「はかなくて ことしも暮れぬ かくしつつ 幾よを経べき 我身なるらん」への返しです。老いの嘆きへの共感があります。)
●「夏の夜の 月待つほどの 手すさみに 岩もる清水 いくむすびしつ」(夏の夜、清水のほとりで月の出を待っている間、なんとなく手持ち無沙汰なもので、岩の隙間から漏れてくるその水をすくっては、喉を潤していた。いったい月が出るまで、何度手にすくったことだろう。「金葉集」)
●「から衣 たつ田の山の ほととぎす うらめづらしき 今朝の初声」(龍田山のほととぎすの、心ひかれていつまでも聞いていたい今朝の初声であるよ。「続千載集」古今集の本歌取りで、新しさは感じられませんが、古風な格調を重んじた基俊の主張が強く感じられる歌です。)
●「あたら夜を 伊勢の浜荻 をりしきて 妹恋しらに 見つる月かな」(もったいないような月夜なのに、私は伊勢の海辺で旅寝するために葦を折り敷いて寝床に作り、都の妻を恋しがりながら、こうして月を眺めることよ。「千載集」詞書に「月前旅宿といへる心をよめる」とあります。浜荻は伊勢の浜辺に生えている葦のことです。)
●「秋風の ややはださむく 吹くなへに 荻のうは葉の 音ぞかなしき」(秋風がだんだんと肌寒く吹くようになるにつれて、荻の上葉のたてる音が悲しげに聞えてくるよ。「新古今集」)
エピソード
●「無名抄(むみょうしょう)」では、基俊について才学のある人物だが、競争心が強く、深い思慮もせず他人を非難することを好むため、多くの失敗をしたと批判しています。とくに、74番・源俊頼を「文盲(もんもう:文字の読み書きができないこと)」の人物だが経験で何とか詩歌を作っていると批評し、歌合で詠んだ俊頼の歌の表現にケチをつけ、かえって恥をかいた話を伝えています。傲慢(ごうまん)なところがあり、好感をもたれていなかったようです。ただし、「無名抄」を書いた鴨長明は、俊頼の息子、85番・俊恵法師の弟子であることを考えると、うのみには出来ないかもしれません。歌の判定では、作品の根拠となる先行歌があるかどうかを問題とし、古典主義を貫きました。夢中になるとつい我を忘れて強弁してしまうと告白しています。
●ライバルの俊頼に贈った歌も残っています。同じように昇進には恵まれず「かたらばや 草葉にやどる 露ばかり 月のねずみの さわぐまにまに」(「基俊集」)と慰め合っています。「月のねずみ」とは、白黒のねずみを昼と夜として、むなしく過ぎる月日の速さをたとえた、仏典による表現です。主義主張では譲れない2人でしたが、お互いを認め合っていた部分もあったのかもしれません。
●基俊ははじめて「幽玄」という評語を用いたり、「源氏物語」を参考に歌を作ったりしました。弟子入りした83番・藤原俊成への影響ははかりしれません。俊成が歌の詠みようを尋ねると、「枯野の薄(すすき)、有明の月」のようにと答えたといいます。入門のため来訪した俊成を喜んで迎え、当座の連歌で俊成が付けた下の句をほめて上機嫌であった様子が描かれています。その頃の2人の贈答歌があります。俊成「君なくは いかにしてかは 晴るけまし 古(いにしへ)今(いま)の おぼつかなさを」(先生がおられなければ、どうやってこのもやもやを晴らすことができたでしょう。昔と今の歌で、どれが良いのか区別することもできなかったでしょう。)「長秋詠藻」の詞書によると基俊に借りていた「古今集」を返した時にそえた歌です。基俊の返しは「かきたむる 古(いにしへ)今(いま)の言の葉を のこさず君に つたへつるかな」(書き集めておいた昔と今の歌々を、一首残さずあなたに伝えたことだよ。しっかりと後世にこの歌風を伝えておくれ。「風雅集」)2人とも歌の中に「古今集」の名を詠み込んでいます。
●74番・源俊頼とともに院政期の歌壇の指導者として活躍しました。伝統的な歌風を重んじる保守派の立場なので、革新派の俊頼とは激しく対立しました。 ●はじめて「幽玄」という評語を用いたり、「源氏物語」を参考に歌を作ったりしました。80代の頃、25歳の83番・藤原俊成(定家の父)が弟子入りしています。俊成の邸宅は現在の松原通(五条大路)にあったところから五条三位と呼ばれました。俊成を祀る俊成社は、ホテル京都ベース四条烏丸前にあります。
●俊成が基俊に歌の詠み方を尋ねると、「枯野の薄(すすき)、有明の月」のように、と答えたそうです。 ●「世にあらば また帰り来む 津の国の 御影の松よ 面がはりすな」の 基俊の歌碑が西方寺にあります。(神戸市東灘区御影本町6丁目3-6)