プロフィール 光孝天皇

光孝天皇
(こうこうてんのう。830年~887年)

  第58代天皇。仁明(にんみょう)天皇の第3皇子、時康(ときやす)親王。55歳で即位したので、わずか3年余りで病のため亡くなりました。幼い頃より容姿、ふるまいが美しく、聡明で、温和な性格であったため、人々から信頼されていました。渤海(ぼっかい:中国の唐代の国)の使者が一目見て、「必ず天位につかれる事間違いなし」と予言したほどの人柄でした。(「三代実録」)8人の子どもに恵まれましたが、暮らし向きは貧しく、妻自ら市に出て物を買い求める程だったそうです。13番・陽成(ようぜい)天皇の後、藤原基経(もとつね)の強い推挙(すいきょ)で即位しましたが、権力とのかかわりを嫌う人で政治判断はすべて関白に任命した基経にまかせ、文化面に関心を寄せました。読書が趣味で「文選(もんぜん:中国の詩文集)」を読んだり、自分で料理を作ることもあったといいます。和琴の名手で、14番・源融と共同して、すたれていた朝廷儀礼を復活させたり、和歌の発展に努めました。桓武天皇の先例にならって鷹狩を復活させたり、相撲を奨励したりしています。父の仁明天皇が亡くなった時に出家した12番・僧正遍昭とも親交があり、遍昭の七十の賀を祝い歌を贈り、夜通し語り合ったそうです。「源氏物語」の光源氏はこの天皇がモデルではないかという説もあります。887年8月26日、仁和南海地震が発生し、光孝天皇は紫宸殿の南庭に避難しましたが、残暑厳しい中で健康を害し、地震の26日後に58歳で亡くなりました。
代表的な和歌
●「山桜 たちのみかくす 春霞 いつしかはれて 見るよしもがな」(立ちこめて山桜を隠してばかりいる春の霞よ、いつか晴れて花を眺めたいものだ。「新勅撰集」)
●「逢はずして ふる頃ほひの あまたあれば 遥けき空に ながめをぞする」(逢わずに過ごす、雨の降る日が長く続くので、遥かな空を眺めて物思いにふけっているのだ。「新古今集」)
●「君がせぬ 我が手枕は 草なれや 涙のつゆの 夜な夜なぞおく」(あなたが手枕にしてくれない私の袖は、草だろうか。まさかそんなはずはないのに、涙の露が夜ごとに置くのだ。「新古今集」)
●「久しくも なりにけるかな 秋萩(あきはぎ)の ふるえの花も 散りすぐるまで」(あなたに逢わずに長い時が経ったものだ。秋萩の古枝に残っていた花もすっかり散ってしまうまで。「玉葉集」)
●「かくしつつ とにもかくにも 永らへて 君が八千代に あふよしもがな」(このようにしながら、ともかくも生き永らえて、あなたの永遠の長寿に逢うことがあってほしいものだ。「古今集」仁和元年(885)12月、光孝天皇が自ら遍昭の七十の算賀を祝って詠んだ歌です。この歌を詠んだ時、天皇自身も50代半ばでした。長く人生の友としてきた相手への思いが感じられます。)
●「あと絶えて 恋しき時の つれづれは 面影にこそ 離れざりけれ」●「逢はずして 経るころほひの あまたあれは はかなき空に ながめをぞする」(「仁和御集」の恋の歌です。)
エピソード

●「大鏡」には時康親王時代の人柄を伝える話が記されています。基経の養父良房が正月行う大臣大饗の宴(大臣就任の大宴会)を開いた時、配膳の者が雉(きじ)の足の料理を上客の大臣の前に置くのを忘れていました。あわてて時康親王の前の雉の足を取り上げて大臣の膳に移そうとした時、親王は前の燈火をそっと消してミスをめだたぬようにしました。末席でこの様子を見ていた基経は、「実にまあ、すばらしいなされかただなあ」と親王の慈愛の深さに感動し、心を寄せるようになったそうです。
●「古事談」には、基経が、陽成天皇の次の天皇を誰にしようかと親王たちの邸をまわっていると、いずれの親王たちも自分を推(お)してもらおうと装束を改め対応に慌てていたのに、時康親王だけは破れた御簾(みす)に、敗れた畳の上で動ずる様子もなくすわっていたので、この人こそ天皇にと思ったと記されています。
●兼好法師の「徒然草」176段には、不遇だった臣下の身分であった頃に自分が炊事をしていたのを忘れないで、即位後もいつも煮炊きをなさった部屋があったと記されています。薪(たきぎ)で黒い煤(すす)がこびりついているので、黒戸(くろど)の御所といったそうです。
●光孝天皇が即位した年号が「仁和(にんな)」であったため、光孝天皇は仁和の帝、小松の帝とも呼ばれました。仁和2年(886年)、「西山御願寺」と称する寺が建立され始めましたが、翌年に光孝天皇が亡くなったため、第59代宇多天皇が光孝天皇の遺志を引き継ぎ完成させ、仁和寺としました。 ●仁和南海地震が発生し、光孝天皇は紫宸殿の南庭に避難しましたが、残暑厳しい中で健康を害し、地震の26日後に58歳で亡くなりました。現在の京都市立二条城北小学校付近です。
●光孝天皇の墓・後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)は、福王寺神社の南、仁和寺の西にあります。55歳で即位したものの、わずか3年余りの在位でした。 ●福王子神社は光孝天皇の女御班子(はんし)女王を祭神としています。48歳で亡くなり、この辺りに葬られたそうです。いつの頃からか仁和寺の鎮守神として崇拝されるようになりました。