プロフィール 左京大夫顕輔

左京大夫顕輔
(さきょうのだいぶあきすけ。1090年~1155年)

  平安時代末期、和歌の世界にも家元制度ができました。父の藤原顕季(あきすえ)は摂関家並みの勢いがあり、「六条藤家(ろくじょうとうけ)」の歌道の祖として知られています。「金葉集」の巻頭を飾った歌人でした。その三男として生まれた、本名・藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)です。堀河・鳥羽・崇徳・近衛の4代の天皇に仕え、正三位左京太夫(京都の左半分を治める役所の長官)にまで昇進しました。家族、一族に歌人が多く、若い時から恵まれた和歌環境にありました。父と親交のあった74番・源俊頼から指導を受け、その革新的な歌風の影響を受けましたが、後に叙景的表現を特徴とする温雅な歌風を確立しました。六条藤家では古典和歌の「万葉集」を尊重し、3番・柿本人麻呂を歌道の神として敬いました。元永元年(1118)には、柿本人麿の図像を祭り歌を献じたのが、史上最初の「人麿影供(いとまろえいぐ)」の記録とされています。父の顕季は息子たちの中で最も歌才に恵まれた顕輔に人麿の肖像と和歌に関する書物を譲りました。父の没後、誰かの告げ口によって白河院の怒りをこうむり出仕を止められましたが、鳥羽院のもとで官界に復活しました。六条家の後継者として多くの歌合で作者・判者をつとめ、77番・崇徳院に歌才を認められて、「詞花集」の撰者になりました。当時の歌道界では六条藤家に対し83番・藤原俊成と息子の97番・定家を御子左家(みこひだりけ)といい、競い合っていました。「金葉集」以下の勅撰集に84首が入集しており、家集「左京大夫顕輔卿集(顕輔集)」があります。久寿2年(1155)2月、顕輔は花の下に宴を開き、相伝の「人麿影」を清輔に譲り、5月7日に66歳で亡くなりました。
代表的な和歌
●「逢ふと見て うつつの甲斐(かひ)は なけれども はかなき夢ぞ 命なりける」(恋しい人に逢うという夢を見ても、現実にどうなるということはないのだけれど、そのはかない夢が、今は私の命なのです。「金葉集」歌会に同座した74番・源俊頼がこの歌を絶賛したことが「袋草紙」に記されています。)
●「今はさは あひ見むまでは かたくとも いのちとならん 言の葉もがな」(今はそういうことで、逢うことは難しいとしても、せめて命の糧(かて)となる言葉がほしいのです。「千載集」恋しさに死にそうなので、せめて思いやりのある手紙が欲しいという歌です。)
●「こひわびて ねぬ夜つもれば しきたへの 枕さへこそ うとくなりけれ」(恋につらい思いをして、眠れない夜が何日も続いたので、枕さえよそよそしく感じられるようになってしまったよ。「金葉集」)
●「難波江の 蘆間にやどる 月みれば わが身ひとつは 沈まざりけり」(私一人だけではない、月だって蘆間の水底に沈んでいるのです「詞花集」に自選した自信作です。白河院の怒りを受けて不遇の身であった自分を慰めた歌です。しかし、許されないまま白河院は亡くなってしまいます。83番・藤原俊成が絶賛した歌です。)
●「たれもみな 花の都に 散りはてて ひとり時雨(しぐ)るる 秋の山里」(誰もみな、花盛りの都に散って行ってしまって、私ひとりは涙にくれて時雨の降る山里に残っています。「新古今集」何年も通い続けた女性が亡くなって、供養をした山里の寺にこもっていた時に詠んだ歌です。)
●「かばかりの 花の匂ひを おきながら 又も見ざらむ ことぞ悲しき」(これほどの花の美しさを、起きながら再び見ることが出来ないのが悲しいよ。「顕輔集」邸の南向きの正殿の花が盛りだと聞いて、花の見事さが忘れられず、床を出ることができそうには思えなかったので、人に花を折らせて見た時に詠んだ歌です。この後、病が重くなって5月に亡くなりました。)
エピソード
●この時代は「万葉集」への関心が高まり、3番・柿本人麻呂を神のように尊ぶムードが広がりました。ある歌人が常に人麻呂を念じていたところ、夢に現れたので、絵師に描かせました。その人麻呂像は白河院の手に渡り秘蔵されていたのですが、父の顕季が懇願(こんがん)して模写しました。それを本尊として飾り、供養と歌会を合体したのが「人麿影供(ひとまろえいぐ)」です。子から孫へ六条藤家の歌学(和歌についてのさまざまな知識)が伝えられ、家の正統な後継者には、その証として人麿影が引き継がれていきました。
●鴨長明の歌論書「無名抄」に、74番・源俊頼が顕輔の恋の歌を絶賛した話が記されています。「金葉集」の恋の歌「逢ふと見て うつつの甲斐は なけれども はかなき夢ぞ 命なりける」(恋しいあなたに逢うという夢を見ても、現実にどうなるということはないですが、そのはかない夢が、私には生きる命となっているのです。)について、2句と結句をほめたという説が伝わっています。常人なら「うつつに甲斐はなけれどもはかなき夢ぞうれしかりける」と詠むところを、「の」とした点がすばらしい、和歌は一字が肝心なのだ、また、「うれし」と結びたいところを、感動を強調して「命なりける」としたところに斬新さを見ています。
●顕輔が撰者となった「詞花集」は、前の勅撰集「金葉集」との間にわずか25年しかたっていなかったので、精選したためか415首という小規模な撰集となりました。「たけ高い」(格調高い)歌から「戯(ざ)れ歌」まで、幅広く多くの歌を採っています。このため、入集されなかった人や、歌風に不満を持った人々から批判を受けました。それだけ勅撰集は注目されていたのです。
●六条藤家では古典和歌の「万葉集」を尊重し、3番・柿本人麻呂を歌道の神として敬いました。 ●元永元年(1118)には、柿本人麿の図像を祭り歌を献じたのが、史上最初の「人麿影供(いとまろえいぐ)」の記録とされています。
●撰者となった「詩花集」の自信作は「難波江の 蘆間にやどる 月みれば わが身ひとつは 沈まざりけり」です。「難波江」は、大阪湾、旧淀川河口付近の入り江で、芦が群生していた湿地帯です。現在の淀川付近です。官位のあがらぬ落ちぶれたわが身を、水底に映り沈んでいる月に掛けて、月も仲間なのだとなぐさめているのです。 ●「難波江の」の歌は、定家の父である83番・藤原俊成が絶賛した歌です。俊成の邸宅は現在の松原通(五条大路)にあったところから五条三位と呼ばれました。俊成を祀る俊成社は、ホテル京都ベース四条烏丸前にあります。