プロフィール 三条右大臣

三条右大臣
(さんじょうのうだいじん。873年~932年)

  内大臣・藤原高藤(たかふじ)の次男、藤原定方(さだかた)のことです。母は、父の高藤が青年の日、鷹狩(たかがり)で雷雨にあい雨宿りをした豪族の屋敷の少女だったそうです。右大臣となり、京の三条に邸宅があったのでこの名で呼ばれています。27番・藤原兼輔(かねすけ)とはいとこ同士で、幼い頃から仲が良かったようです。後に定方の娘は兼輔と結婚しています。醍醐天皇時代には兼輔とならぶ和歌の中心的存在でした。「三条大臣集」には兼輔との贈答歌が多く収められており、二人の親交の深さが分かります。両者とも宇多上皇・醍醐天皇の側近として政府の要職を歴任し、娘の仁善子(よしこか?)は醍醐天皇の女御となり三条御息所と称されました。天皇の外戚となっても政権には関心を示さず、風流を愛する穏和な人物でした。35番・紀貫之や29番・凡河内躬恒などの作歌活動を支える存在として、和歌を普及させました。また、和歌の他、管弦の才能もあり、醍醐天皇の宮廷の人気者であったといいます。「大和物語」の成立にもかかわった中心的な人物です。息子は44番・藤原朝忠です。家集に「三条右大臣集」があります。勅撰集に17首入集しています。
代表的な和歌
●「春々の 花は散るとも 咲きぬべし また逢ひがたき 人の世ぞ憂き」(春ごとに花は散ってもまた咲くものですが、もう二度と逢うことができない人の世こそ悲しいことです。「大和物語」敦慶親王が延長8年に亡くなった時に、兼輔と詠み交わした歌です。)
●「をみなへし 折る手にかかる 白露は むかしのけふに あらぬ涙か」(女郎花を手折ると白露が手にかかる。これは宮様が、昔の今日ではなく、今いないことを嘆く涙であろうか。「大和物語」女郎花の花が好きだった故・敦慶親王を思い出して、定方が花を頭にさして詠んだ歌です。手折った花から落ちた露を涙にたとえた歌です。)
●「秋ならで 逢ふことかたき をみなへし 天の川原に おひぬものゆゑ」(秋でなくては逢うことが難しい女郎花よ。織女と牽牛が一年に一度だけ逢う天の川の河原に生えるものでもないのに。「古今集」宇多上皇が催した「女郎花合」での歌です。「女郎花合」とは、女郎花を持ち寄って、花と歌の優劣を競い合う遊びです。)
●「はかなくて 世にふるよりは 山科の 宮の草木と ならましものを」(たよりなく、むなしい状態でこの世に永らえるよりは、山科の御陵の草木になってしまえばよかったものを。「後撰集」醍醐天皇が亡くなり、世の中を嘆いて藤原兼輔に贈った歌です。天皇は山科御陵に葬られました。)
◆兼輔の返歌は「山科の 宮の草木と 君ならば 我は雫に ぬるばかりなり」(あなたが山科御陵の草木となるのなら、私はその草の雫に濡れるばかりです。「後撰集」)                   
「いたづらに けふやくれなむ あたらしき 春の始めは 昔ながらに」(なすこともなく虚しく今日という日は暮れてゆくのでしょうか。新しい年の春の始めは昔と変わらず巡って来たというのに。「後撰集」これも藤原兼輔に贈った歌です。)
エピソード
●定方がまだ若かった頃、交野(かたの)へ狩猟に出かけた兼輔の後を追いかけて詠んだ歌が残っています。「君が行く かたのはるかに 聞きしかど 慕へば来ぬる ものにぞありける」(あなたの行き先の交野ははるかな地と聞きましたが、後を慕ってとうとうやって来ましたよ。「兼輔集」都から遠く離れた交野まで後を慕ってきた定方の思いが伝わってきます。)
●「大和物語」には定方とその周辺の人のエピソードが残されています。まだ中将であった時、賀茂の祭りの勅使として出かけた話があります。久しく通わなくなった女性の所に「忙しくて扇を忘れてしまいました。一本ください。」と頼んだところ、色も美しく、香りもすばらしい扇が届けられ、すでに見捨てられた私のつらい気持ちをこの扇に託して贈りますという歌が扇の裏に書いてありました。定方はとてもしみじみとした思いにうたれて返歌を贈ります。「ゆゆしとて 忌(い)みけるものを わがために なしといはぬは たがつらきなり」(男女間で扇を贈物にするのは不吉でつつしむべきことなのに、私のために扇はないと断らずに扇をよこしたのは、他ならぬあなたがつれないことの証拠でしょうか。)
●「今昔物語」巻22には高藤家の繁栄物語として、異例の出世のめでたさが特筆されています。北山科に鷹狩りに出た貴公子藤原高藤(定方の父)は、突然の風雨にやむなく付近の民家に雨宿りしますが、接待に出たその家の娘と一夜の契りを結び、形見に太刀を置いて去ります。ところが、父に外出を禁じられ手紙を送ることもできないまま6年の月日が流れます。その間ひたすら再会の日を待ち続けた高藤は、お供をした男を召してその家を再び訪れると、娘には彼の子である女の子が生まれていました。不思議な縁に心打たれた高藤は彼女と結婚し、男の子が2人(兄は定国、弟は定方)続いて生まれます。彼は出世して内大臣となり、女の子はやがて宇多天皇の女御となって醍醐天皇を産みました。その奇縁の家の跡が今の勧修寺です。この話は当時人々によく知れわたっていたようです。
●勧修寺(かじゅうじ・かんしゅうじ)は、醍醐天皇が母・藤原胤子(つぎこ)の菩提を弔うために寺としたのが始まりです。定方の父、高藤が鷹狩の帰りに雨に遭い、宮道弥益(みやじいやます)の邸で雨宿りさせてもらいましたが、その邸を勧修寺としたのです。 ●境内には、平安時代より伝わる氷室(ひむろ)の池を中心に、周囲の山も取りこんだ池泉庭園があります。平安時代には、毎年1月2日にこの池に張る氷を宮中に献上していました。
●勧修寺の南にある宮道(みやじ)神社は、宮道弥益、列子、胤子、定方など宮道家の人々を祀っています。定方の歌碑があります。 ●定方の墓は、勧修寺の南に位置する鍋岡山の西の麓にあります。碑銘文には、承平2年8月8日に60歳で亡くなり埋葬、享保8年に一門により墳墓前に遺徳碑を建立したとあります。 ●定方の墓から鍋岡山の頂に登ると、京の都を見下ろすように父・高藤の墓も建立されていました。