プロフィール 凡河内躬恒

凡河内躬恒
(おおしこうちのみつね。生没年不明)

 9~10世紀初頭にかけて生きた人で、家系など詳しいことは不明です。下級役人として、甲斐少目(かいのしょうさかん)、丹波権大目(たんばのごんのだいさかん)、和泉大掾(いずみのだいじょう)、淡路権掾(あわじごんのじょう)などの地方官を歴任しました。いつまでも官位が上がらず、27番・藤原兼輔らに不遇を訴える歌を贈っています。しかし、歌才には優れ、宇多法皇のお気に入りでした。35番・紀貫之と並ぶ当時の代表的歌人として宮廷の宴に呼ばれたり、高官の家に招かれて屏風歌を詠むなど、一番の売れっ子でした。三十六歌仙の一人で、「古今集」の4人の撰者の中の一人です。貫之とは深い友情で結ばれていたことが知られています。貫之とともに中国の漢詩「からうた」に対して和歌「やまとうた」の確立をめざしました。彼の歌を見ると、四季の自然や恋の思いだけでなく、人の死の悲しみ、世の中への不平不満、遊び心まで、あらゆる思いが詠みこまれています。当時から「詠み口深く思入りたる方は、又類なき者なり」(対象に深く思い入って詠むという点では比類のない歌人だ:85番・俊恵の言葉)」と高く評価されていました。「古今集」では貫之の102首に対して、躬恒は2位60首、以下の勅撰集に194首入集しています。家集に「躬恒集」があります。925年、淡路島から無事に帰京して、十五夜の月を詠んだ歌が「新古今集」に残っていますが、没年はわかりません。
代表的な和歌
●「我が宿の 花見がてらに 来る人は 散りなむ後ぞ 恋しかるべき」(わが家の庭の花を見物しがてら訪ねてくれる人たちを、花が散った後にきっと恋しくなるに違いないのだ。「古今集」)
●「憂きことを 思ひ連ねて 雁がねの 鳴きこそ渡れ 秋の夜な夜な」(世の中のさまざまの悲しみを思っては、それをすべて並べたてて、雁は泣きながら、秋の毎夜毎夜鳴いて空を飛んでゆくのだなあ。「古今集」雁が連なって鳴いて飛んでいく姿から悲しみを並べたてて訴えることを連想して、人生の苦しみを詠っています。)
●「世を捨てて 山に入る人 山にても なほ憂きときは いづちゆくらむ」(浮世を捨てて山に入ってしまう人は、山にいてもまだつらいことがあったら、今度はどこへ行くのだろう。「古今集」当時は出家をする人や出家を求める歌が多かったようで、そういう身分の高い人への皮肉をこめた歌です。)
●「わが恋は ゆくへも知らず 果てもなし 逢ふを限りと 思ふばかりぞ」(私のこの恋は、成行きもわからず、結末も明らかではない。ただ今は、あの人と逢うこと願うだけなのだ。「古今集」)
●「香を尋(と)めて たれ折らざらむ 梅の花 あやなし霞(かすみ) たちな隠(かく)しそ」(梅の香をたよりに尋ねていけば、梅の枝を折りとれない人がいようか。無意味なのだから霞よ、梅の花を隠すのはやめなさい。)
●「春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」(春の夜の闇はわけのわからないものです。梅の花の色は確かに見えなくしても、その香りは隠れたりするでしょうか。いいえ、ありかは知られてしまうのだ。「古今集」)
●「いづことも 春の光は わかなくに まだみ吉野の 山は雪降る」(どこでも春の光は分け隔てなく射すはずですのに、この吉野山ではまだ雪が降っております。「後撰集」)
「塵(ちり)をだに すゑじとぞ思ふ 咲きしより 妹(いも)とわが寝る 常夏(とこなつ)の花」(咲きはじめてから大切にして、塵一つ置かないようにしています、共寝する愛しい妻ほど大事ななでしこの花よ。「古今集」作者の家の庭に咲いた花を隣家の人が分けてくれと言ってきたとき、断った歌です。)
●「夏と秋と 行きかふ空の 通ひ路は かたへ涼しき 風や吹くらむ」(去りゆく夏と訪れる秋が行き違う空の通り路では、片方にだけ涼しい風が吹いているのだろうか。「古今集」)
●「風吹けば 落つるもみぢ葉 水きよみ 散らぬかげさへ 底に見えつつ」(風が吹くたびに落ちる紅葉、水が澄んでいるので、まだ散らずに残っている葉の姿までも底に映りながら。「古今集」)
エピソード
●鴨長明の鎌倉時代の歌論書「無名抄(むみょうしょう)」によると、35番・紀貫之と躬恒の優劣を問われた74番・源俊頼は「躬恒をば、なあなづらせ給ひそ(躬恒を侮って軽く見てはいけません)」と答えたと言います。「貫之より優れている」とは断言していません。つまり優劣がつけられない、2人ともいいということでしようか。
●「大和物語」33段には、宇多法皇に奉った歌が記されています。「立ち寄らむ 木のもともなき つたの身は ときはながらに 秋ぞかなしき」(蔦(つた)は立ち木に寄りすがってのびていくものですが、蔦と同じように、取るに足らぬ私の場合は、頼りに思ってすがるような手づるもなく、緑の袍(ほう)を着る身分のまま、紅の袍を着るようにはなれず、紅葉に映える秋がつらく悲しく思われます。)昔は、正装のときの上着の色が身分によって決まっていました。六位は浅黄(あさぎ:緑色を帯びた青)、五位は浅緋(あさあけ:やや黄味の赤)でした。五位は六位以下に比べて格段に優遇されました。躬恒は人に仕えるにもつてがなく、親友の35番・紀貫之の紹介で27番・藤原兼輔の邸に出入りしてその援助を受けたようです。
●「大和物語」132段には、月夜の管弦の遊びで、醍醐天皇から月を「弓張(ゆみはり)という理由について歌で答えるように言われた時に即座にこう詠みました。「照る月を 弓張としも いふことは 山辺をさして いればなりけり」(照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです。)月が入ることを、弓を射ることに掛けたのです。見事な歌に天皇から褒美の着物を賜ると、今度はその着物を肩にかけて「白雲の このかたにしも おりゐるは 天つ風こそ 吹きてきつらし」(白雲がこちらのほうにおりてきてかかっているのは、空吹く風が吹きよせてきたかららしい。私の肩に白く美しい着物がかかっているのは、帝のおめぐみによるものでごさいます。)と歌って喜びを表しました。即興的な歌才に優れていたことをうかがわせるエピソードです。
●「古今和歌集」の両雄といえば、紀貫之と凡河内躬恒といわれています。官位は従五位上で「古今和歌集」の仮名序を記した貫之に対して、躬恒は身分こそ低かったのですが、専門歌人として一番人気でした。「古今集」は平安内裏承香殿の東庇(とうひ)で編纂されました。 ●なかなか五位に出世しない嘆きを詠んだ歌があります。昔は正装のときの上着の色が身分によって決まっていました。六位は浅黄(あさぎ:緑色を帯びた青)、五位は浅緋(あさあけ:やや黄味の赤)でした。
●船岡山は平安時代の野遊びの地であり、正月に若菜を摘み長寿を願ったことを躬恒も歌に詠んでいます。「船岡に 花摘む人の 摘み果てて さして行く方 いづくなるらむ」頂上から平安京が見渡せます。 ●地方官を歴任した躬恒は、淡路島にも赴任しています。現在では、兵庫県神戸市と淡路島を結ぶ世界最長の吊り橋、明石海峡大橋が架けられています。