プロフィール 河原左大臣

河原左大臣
(かわらのさだいじん。822年~895年)

  嵯峨(さが)天皇の皇子、源融(みなもとのとおる)のことです。17歳で元服し、臣籍(しんせき=家臣となること)に下って源氏の姓を受けました。従一位左大臣まで出世し、大きな権力をもちました。天皇の武道ともいうべき鷹狩(たかがり)に熱を入れる一方、風流な生活を好み、宇治(現在の宇治平等院)や嵯峨野(現在の清涼寺)の別荘とともに、京都の東六条、鴨川(かもがわ)のほとりに六条河原院という豪華な別荘を造りました。あこがれていた陸奥(みちのく)の景色を楽しむため、屋敷の庭園を陸奥(みちのく)の塩竃(しおがま)の浦そっくりに作らせました。鴨川の水を引きこんで魚や貝を放ち、毎日難波(なにわ)の尼崎(あまがさき)の浦から海水30石(約5.4キロリットル)を数百人に運ばせ、塩を焼かせて海の民の暮らしまで再現しました。藻汐(もしお)の煙の立つ夕べのわびしさを楽しんだそうで、当時から評判の名所でした。「源氏物語」の光源氏の邸宅「六条院」のモデルの一つであり、融も色好みであったので光源氏のモデルの一人とされています。3歳年下の17番・在原業平と親交があり、多くの人が河原院に集い、詩歌や管弦(かんげん)を楽しみました。しかし、74歳で融が亡くなると、このぜいたくな河原院の維持が難しくなります。息子の昇(のぼる)が宇多天皇に河原院を寄進しましたが、たび重なる鴨川の氾濫(はんらん)で荒れ果て、やがて幽霊屋敷のうわさが立ちました。
代表的な和歌
●「けふ桜 しづくに我が身 いざ濡れむ 香ごめにさそふ 風の来ぬまに」(今日、桜よ、雫に我が身はさあ濡れよう。香もろとも誘い去ってゆく風が来ないうちに。「後撰集」)
●「ぬしやたれ 問へどしら玉 いはなくに さらばなべてや あはれと思はむ」(この真珠の持ち主は誰か。尋ねても相手は白玉だから、「しら」ぬふりをして、誰も自分のものだとは言わない。それなら私は舞姫を皆いとしいと思うことにしようよ。「古今集」五節の舞のあった翌朝、五節の舞姫の髪飾りに付いていた真珠が落ちていたのを見て、誰の物だろうと、聞いて回った時に詠んだ歌です。)
●「照る月を まさ木のつなに よりかけて あかず別るる 人をつながむ」(輝く月を、まさかづらの綱によってつなぎかけて、心残りのまま別れて行く人をつなぎ止めよう。「後撰集」融の邸に在原行平がやって来て、月を眺め酒を飲んでいて、行平が帰ろうとしたのでひきとめた歌です。)
返し「限りなき 思ひの綱の なくはこそ まさきの葛(かづら) よりもなやまめ」(まさきのかづらは限りなく長いそうですが、そんなふうに限りのない思いがあなたにあるでしょうか。もしないのであれば、綱によるのは大変でしょうね。「後撰集」月に届く程の気持ちはないでしょうと、左大臣の大げさな歌をからかったのです。)
エピソード

●「源氏物語」の夕顔の巻で、光源氏が恋人の夕顔を連れて入る廃屋「某(なにがし)の院」というのは河原院がモデルだといわれています。夕顔は物の怪に取りつかれて亡くなってしまいます。 
●融の死を悼(いた)んで、35番・紀貫之は荒れゆく河原院を訪れ、「君まさで 煙絶えにし 塩竈の 浦さびしくも 見えわたるかな」(「貫之集」)の一首を残しています。謡曲「融」、近松門左衛門の浄瑠璃「融の大臣」などの作品には融の幽霊が登場します。

●「今昔物語集」巻27の「川原院の融左大臣の霊を宇多院あらわしたまへること」と、「宇治拾遺物語」巻12の「河原院に融公(とおるこう)の霊住む事」には、河原院で宇多天皇(光孝天皇の子、源定省)の前に融の幽霊が現れる話です。夜中に、さやさやと衣ずれの音がして、きちんとした束帯姿の人が太刀(たち)をつけ、手に笏(しゃく)を持ってやってきます。宇多院が融の大臣かと問うと、「私の家ですので住んでおりますが、院がおいでになるのが恐れ多く気が重いのです。いかがいたしたものでしょう。」と言います。宇多院が「私は人の家を奪い取ったのではなく、お前の孫が私にくれたからこそ住んでいるのだ。礼儀もわきまえず、どうしてそんなに恨むのか。」と大声でしかりつけると、霊はかき消すように見えなくなり、二度と現れなかったと語っています。また、同じく「今昔物語」巻27には、河原院に宿泊した男が、妻を鬼に殺された怪談があり、
河原院が霊や鬼のすみかと考えられていたようです。
●「大鏡」には、陽成天皇退位後、だれを次の帝にするかと議論になった話が記されています。「いかがは。近き皇胤(こういん)をたづねば、融らもはべるは」(自分も天皇の近い血筋の一人なのだから、候補に入る)と融が主張しましたが、源氏に下った後に天皇に即位した例はないと、時の権力者基経に退けられたというのです。史実かどうかは不明です。
●京都の東六条、鴨川(かもがわ)のほとりに六条河原院という豪華な別荘を造りました。あこがれていた陸奥(みちのく)の塩竃湾の風景、海の民の暮らしまで再現したおどろきのテーマパークでしたが、今はその地を示す石碑のみ残っています。 ●河原院が荒れ果てた後、鴨川の深い淵に沈んでいた河原院の鐘は、引き上げられて建仁寺の東の鐘堂に移されました。
●宇治の別荘は、現在の宇治平等院です。融の死後、宇多天皇、源重信に渡り、藤原道長の別荘「宇治殿」となり、その子の頼通が寺にしました。 ●嵯峨野の別荘・棲霞観(せいかかん)は、源融の死後、棲霞寺、現在の清凉寺(せいりょうじ)となりました。 ●清凉寺は嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)としても知られています。源融公墓所が境内にあります。