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藤原清輔朝臣
(ふじわらのきよすけあそん。1108年~1177年)
79番・藤原顕輔(あきすけ)の次男で、顕輔19歳の時の子です。父からは愛されず、親子ながら不和だったという逸話が残っています。才能に恵まれながらも、何かと挫折の多い人生でした。異母弟の重家(しげいえ)・季経(すえつね)が優遇され公卿まで昇進しましたが、清輔は不遇で位も正四位下・太皇太后大進にとどまり出世できません。父が77番・崇徳院の命で「詞花集」の選集にあたっていた時も、その補助をした清輔の意見は採用されず、清輔の歌は一首も選ばれませんでした。博学で歌学(和歌の研究)に優れ、「奥義抄」「和歌一字抄」を著します。久寿2年(1155年)、父・顕輔も清輔の歌才を認め、人丸の御影(みえい)を譲って、歌道の名家六条藤家の3代目となりました。歌会のやり方、作法、有名歌人の逸話など、歌の百科全書ともいえる「袋草紙(ふくろぞうし)」を完成させたことで、王朝歌学の大成者といわれています。二条院に深く信頼され、「続詞花集」の編纂をまかされましたが、完成前に二条院が死去したため、心血を注いだ歌集も勅撰集にはなりませんでした。(私撰集「続詩花集」となる。)中年になってから清輔の評価は非常に高くなり、御子左家の83番・藤原俊成に並び称されました。特に右大臣九条兼実は、35番・紀貫之、55番・藤原公任に並ぶ歌才であると激賞しました。晩年の自撰家集に「清輔朝臣集」があり、「千載集」(19首)以下の勅撰集に89首が入集しています。 |
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●「そなたより 吹きくる風ぞ なつかしき 妹が袂に ふれやしぬらむ」(そちらの方から吹いてくる風が慕わしい。いとしい人の袂に触れたのだろうか。「玉葉集」)
●「君来ずは 独りや寝なむ 笹の葉の み山もそよに さやぐ霜夜を」(あなたが来ないならば、私は独りで寝ることになるだろうか。笹の葉が山全体にさやさやとそよぐ、こんな寒い霜夜であるのに。「新古今集」)
●「冬枯の 森の朽葉(くちば)の 霜の上に 落ちたる月の 影の寒けさ」(冬枯れした森の朽ち葉に置いた霜、その上にさしている月の光の寒々としていることよ。「新古今集」)
●「うす霧の まがきの花の 朝じめり 秋は夕べと 誰かいひけむ」(薄い霧のただよう垣根に咲いている花の朝霧でしっとりしたすばらしさよ、秋は夕暮れが趣が深いとは、誰がいったのだろうか。「新古今集」清少納言が「枕草子」で『秋は夕暮れ』と主張したことに対して、霧の朝に秋の美を発見しています。)
●「消ゆるをや 都の人は 惜しむらむ けさ山里に はらふ白雪」(消えてしまうのを都の人ならば惜しむだろう。今朝、山里にあって払う白雪よ。「千載集」)
●「柴の戸に 入日の影は さしながら いかに時雨(しぐ)るる 山べなるらむ」(柴の戸に夕日の光は射しているのに、どうして同時に時雨の降っている、あの山べなのであろうか。「新古今集」)
●「めもあやに 見ゆるこよひの 月影に はたおりそふる 虫の声かな」(まぶしいくらいに見える今夜の月の光に、キリギリスを付け加えた虫の声であるなあ。「清輔集」)
●「更(ふ)けにける 我が世の秋ぞ あはれなる かたぶく月は またも出(い)でなむ」(更けてしまった私の人生の秋は悲しいものだ。西へ傾く月は、再び東から昇るだろうけれど。「千載集」)
●「霧のまに 明石の瀬戸に 入りにけり 浦の松風 音にしるしも」(霧の立ち込める中、明石の海峡に入ったのだな。浦の松を渡る風の音によってはっきりと知れる。「清輔集」)
●「老いらくは 心の色や まさるらむ 年にそへては あかぬ花かな」(老年になると心の色がまさるのだろうか。年を取るにつれてますます見飽きない桜の花であるよ。「玉葉集」) |
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●「無名抄(むみょうしょう)」では清輔について「歌の方の弘才は肩を並ぶる人なし」と言っています。清輔は漢詩で行われていた「尚歯会(しょうしかい:敬老詩会)」を和歌にも取り入れて行事化しました。「古今著聞集」には、招かれた老歌人7人を挙げています。84歳で耳は遠いが熱意の人敦頼入道以下、70代3人、60代3人で、主催者の清輔は布袴(ほうこ)の束帯姿でしたが、重家(しげいえ)が裾を取り、季経(すえつね)が沓(くつ)をはかせるお世話をしました。異母弟2人はいずれも清輔より官位は高かったのですが、兄を尊敬する振る舞いが人々の心を捉えたと伝えています。その5年後、清輔は74歳で亡くなりました。
●清輔は著作「袋草紙」に祖父・顕季の言葉を伝えています。「歌よみは万葉よく取るまでなり。これを心得てよく盗むを歌よみとす」(歌よみは「万葉集」からうまく歌詞を取ってくればそれでよい、このことをわきまえて上手に取る人のことを歌よみというのだ。)「万葉集」を尊重した六条藤家の家祖らしい言葉といえます。これに対し、御子左家の83番・藤原俊成は「古今集」こそ手本とするべきであると主張しました。
●「袋草紙」は松尾芭蕉も読んでいて、「おくのほそ道」の白川の関でふれています。「古人冠を正し、衣装を改めし事など、清輔の筆にもとどめ置れしとぞ。」(昔、竹田大夫国行が、この関を越える時、冠をかぶり直し、衣装を整えて通ったということが、清輔の「袋草紙」に、書きとめてあるとかいうことだ。) |
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●父との不仲から昇進のないことを述懐歌として天皇に贈っています。「梅の花 おなじねよりは 生ひながら いかなるえだの 咲きおくるらん」梅の花を自分に例え、同じ根から生えた兄弟なのに弟たちのように四位になれない嘆きを詠んでいます。 |
●また、菊の盛りに詠んだ歌「花さかで 老いぬる人の まがきには 菊さへ時に あはぬなりけり」では、不遇な身の上の自分を「老いぬる人」と表現して、家のまがきには菊さえ咲かないと嘆いています。 |
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●二条院に深く信頼され、「続詞花集」の編纂をまかされましたが、完成前に二条院が死去したため、心血を注いだ歌集も勅撰集にはなりませんでした。 |
●歌の百科全書ともいえる「袋草紙(ふくろぞうし)」を完成させたことで、王朝歌学の大成者といわれています。中年になってから清輔の評価は非常に高くなり、御子左家の83番・俊成に並び称されました。俊成の邸宅は現在の松原通(五条大路)にあったところから五条三位と呼ばれました。俊成を祀る俊成社は、ホテル京都ベース四条烏丸前にあります。 |
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