プロフィール 権中納言定家

権中納言定家
(ごんちゅうなごんさだいえ。1162年~1241年)

 藤原定家は、平安末期の大歌人83番・藤原俊成の49歳の時の子です。母は美福門院加賀です。御子左家(みこひだりけ)の後継者として父から和歌を学び、新古今時代の代表的な歌人として活躍しました。叙情的な作品を得意とし、俊成の唱えた「幽玄(ゆうげん)」を発展させた「有心(うしん)」を掲げ、余情・妖艶(よじょう・ようえん)を理想としました。あやしいまでの美しさと、言外に漂う雰囲気を大切にした、幻想的な歌がよいとしました。定家の歌才が認められたのは86番・西行法師の勧めで「二見浦百首」を詠進した25歳の時です。西行や90番・殷富門院大輔など理解者もいましたが、保守派の歌人には理解されませんでした。定家がめざした歌風は意味の分かりにくい歌として「達磨歌(だるまうた)」とののしられ、約十数年は不遇の時代でした。32歳には母と親友の藤原公衡を亡くしました。39歳になって、定家の歌は99番・後鳥羽院の目にとまり、「新古今集」の撰者に抜擢(ばってき)されます。病弱でしたが、気性が激しく強情な性格だったようで、歌に対して妥協を許さず、後鳥羽院との対立もありました。承久2年(1220)、内裏歌会に提出した歌が後鳥羽院の怒りにふれ、勅勘(ちょっかん:勅命による謹慎)を被って、公の出座・出詠を禁じられました。その間、定家はさまざまな書物を書写し、多くの平安文学が後世に伝えられることになりました。翌年、承久の乱で後鳥羽院と息子の100番・順徳院が配流された後は、96番・藤原公経の支援を受けて、再び歌壇で大きな力を持つようになります。52歳の時には93番・源実朝の家集「金塊和歌集」を書写しています。71歳の正月、正二位権中納言に昇り、京極中納言と称されましたが、九条道家との対立があったらしく、12月に辞任し、翌年出家して「明静(みょうじょう)」と名のりました。74歳の時「新勅撰和歌集」を完成し、5月に「百人一首」のもととされている「小倉色紙」を書きました。また、母の影響で深く愛した「源氏物語」をはじめとして古典の書写・注釈、、歌論書「近代秀歌」「詠歌大概」、家集「拾遺愚草」など、多くの著作があり後世に大きな影響を与えました。
代表的な和歌
●「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(見渡せば、美しい春の花も秋の紅葉もない、ただ海辺の苫葺きの粗末な小屋が見える秋の夕暮れだなあ。「新古今集」今ここにないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところです。寂蓮「さびしさは」、西行「心なき」と合せて「三夕の歌」といいます。)
●「春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰にわかるる 横雲の空」(春の夜の、短くてはかない夢がとぎれて、見ると今、横雲が山の峰から別れてゆくあけぼのの空であることよ。「新古今集」)
●「駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮」(馬をとめて 袖の雪をはらう物陰もない、佐野の渡し場の雪のつもる夕暮れよ。「新古今集」)
●「梅の花に にほひをうつす 袖の上に 軒もる月の 影ぞあらそふ」(梅の花が匂いを移し染める袖の上に、軒を漏れてくる月影も涙に映って、香りと光が競い合っている。「新古今集」)
●「帰るさの 物とや人の ながむらん 待つ夜ながらの 有明の月」(今頃は女の家からの帰り道のものとしてあの人は見つめているのでしょうか、一晩中待たされたあげく、つらい思いで私が見ているこの夜明けの月を。「新古今集」女の心になって詠んだ歌で新古今時代の恋歌の代表作の一つ。)
●「かきやりし その黒髪の 筋ごとに うち臥すほどは 面影ぞ立つ」(かきのけてやった女のその黒髪の一筋一筋が、独り寝をしている時は、目に浮かんで見えることだ。「新古今集」)
●「年も経ぬ 祈る契りは 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮」(あの人に逢えるようにと祈りながら、その契りも空しく年月が過ぎ去った、初瀬山の頂の鐘が鳴る夕暮に、あの人は私とは別の男と逢っているのだろうか。「新古今集」)
●「嘆くとも 恋ふともあはむ 道やなき 君葛城の 峰の白雲」(嘆こうとも恋焦がれようとも、いまや逢う道がありません、あなたは葛城の峰の雲のような遠い存在です。「拾遺愚草」定家と式子内親王の悲恋を描いた謡曲「定家」に引かれた歌です。)
●「たまぼこの 道行き人の 言伝も 絶えてほどふる 五月雨の空」(あの人が通りすがりの人に託す伝言も絶えて久しい、長く降り続ける五月雨の空よ。「新古今集」)
●「旅人の 袖ふきかへす 秋風に 夕日さびしき 山のかけはし」(旅人の袖をひるがえして吹く秋風と共に、夕日が寂しく照らす山の梯(かけはし)よ。「新古今集」梯は、山の急斜面に板などを棚のように架け渡して通れるようにした道。)
●「玉ゆらの 露も涙も とどまらず 亡き人恋ふる宿の秋風」(ほんのわずかの間さえ草葉におく露も私の涙もとどまることがない、亡き母を恋しく思って過ごすこの宿を訪れる秋風よ。「新古今集」母が亡くなってしまった秋、野分の吹き荒れた日、父・俊成を弔問した時の歌です。)
エピソード
●恋歌を詠む時には「凡骨の身を捨てて、業平の振る舞ひけむことを思ひ出でて、我が身をみな業平になしてよむ」と弟子に教えました。自分は平凡な人間だが、王朝随一の色好みである17番・在原業平になりきって詠むのだというのです。
●俊成には複数の妻がいて、22人の子どもがいましたが、後継者にふさわしいと子がいなかったようで、87番・定長(後の寂蓮法師)を養子に迎えます。49歳の時、定家が生まれますが、生まれつき病弱で、2度も死にかけた上に持病までありました。そのため神経質で感情の起伏が激しかったようです。「十訓抄」「古今著聞集」には、文治2年(1185)、源雅行と殿上で言い争い、脂燭(ししょく:小形の照明具)で相手を打ち除籍となった定家を、父の俊成が子を思う心を詠んだ和歌によって救った話が記されています。
●後鳥羽院は「後鳥羽院御口伝」で定家を厳しく批判しています。「さしも殊勝なりし父の詠をだにもあさあさと思ひたりし上は、ましてや余人の歌沙汰にも及ばす」「傍若無人、理(ことわり)も過ぎたりき。他人の詞(ことば)を聞くにも及ばす」とあり、他人の和歌を軽んじ、他人の言葉を聞き入れない強情さを指摘しています。どんなに後鳥羽院がほめても、自詠の左近の桜の述懐の歌が気に入らないからと、「新古今集」への入撰を反対しました。歌才を認め「新古今集」の撰者に抜擢してくれた後鳥羽院にさえも歌の良し悪しや芸術論では譲りませんでした。2人は次第に不仲になり、承久2年(1220)、定家は大宰府に左遷された24番・菅原道真にわが身をたとえた歌を詠みます。「井蛙抄」によると、内裏歌会の出詠歌「道のべの 野原の柳 もえそめて あはれ思ひの 煙くらべや」が院を怒らせ、謹慎(きんしん)を命じられたと伝えています。翌年、承久の乱に敗れた後鳥羽院は隠岐に流罪となり、和解には至りませんでした。しかし、「ただ、詞姿の艶にやさしきを本躰とする間、その骨(こつ)すぐれざらん初心の者まねばば、正躰なき事になりぬべし。定家は生得の上手にてこそ、心何となけれども、うつくしくいひつづけたれば、殊勝の物にてあれ」とも記し、最大の理解者も後鳥羽院でした。
●定家は筆まめで、19歳から74歳まで55年間、「明月記」という日記を書き続けましたが、「紅旗征戎(こうきせいじゅう)は吾事(わがこと)に非(あら)ず」と記しています。源平の戦乱の世に関係なく自分はひたすら和歌の世界に生きると宣言しているのです。研究によって、この19歳の記は70歳頃になって加筆訂正をしていると鑑定されましたが、和歌に一生を捧げる思いがこもっています。また、「古今集」「後撰集」「拾遺集」「万葉集」「源氏物語」「土佐日記」などの古典文学を数多く書写し後世に伝えたことも大きな功績です。
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「来ぬ人を」の歌碑は、奥野宮地区の竹林の小径沿いにあります。 ●定家の墓は、京都市の上京区にある相国寺にあります。 ●また、石像寺(しゃくぞうじ)には、87番・寂蓮、98番・家隆と並んで定家の供養塔があります。 
●江戸時代になると、定家の別荘・小倉山荘を時雨亭と呼ぶようになりました。次の3か所に時雨亭跡の石碑が建てられています。
 ①常寂光寺境内の仁王門北側
 ②嵯峨の二尊院境内の山腹  ③厭離庵の境内。厭離庵庭園には定家卿御塚がありますが、ここは蓮生の中院山荘跡です。