プロフィール 素性法師

素性法師
(そせいほうし。生没年不明)

 俗名・良岑玄利(よしみねのはるとし)。9~10世紀初頭にかけて生きた人で、12番・僧正遍昭(良岑宗貞:よしみねのむねさだ)の子。清和天皇の時代に左近将監(さこんのしょうげん)まで昇進しましたが、「法師の子は法師なるぞよき」(僧の子は僧になるがよい)という父親の命令で、兄の由性と共に出家させられたようです。ただし、由性は素性法師の別名とする説もあります。別当に任ぜられた洛北の雲林院(うりんいん)は、和歌・漢詩の会の催しの場として知られました。その後、大和国石上(やまとのくにいそのかみ:現在の奈良県天理市)の良因院(りょういんいん)の住職となりました。三十六歌仙の一人として、数々の屏風歌や歌合で活躍しました。二条后高子に召され17番・在原業平とともに屏風歌を献じたり、宇多天皇の時代に上皇の御幸で歌を詠んだりしています。素性は、梅や桜の花を題材にした春の歌を多く詠みましたが、恋歌は少なくあまり得意ではなかったといわれています。また、名筆家として、自分の歌のほかに、29番・凡河内躬恒、30番・壬生忠岑、31番・坂上是則、33番・紀友則、35番・紀貫之の歌を屏風に書いたことが知られています。また、内裏の屏風に歌を書いたという記録もあります。「古今集」の撰者らと親交があり、素性法師が亡くなった時には、貫之と躬恒が哀傷歌を贈り合っています。
代表的な和歌
●「見渡せば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の 錦なりける」(見渡してみると、柳の緑色と桜の色とが混ざり合って、京の都が春の錦織のようであることよ。「古今集」)
●「音にのみ きくの白露 夜はおきて 昼は思ひに あへず消(け)ぬべし」(私はあなたのことをうわさで聞くばかり、夜は菊の白露が置くごとく、私も一晩中起き明かし、昼はその白露が日差しに耐えず消えるように、この私もあなたへの切ない思いに耐えかねて消え入らんばかりの状態です。「古今集」)
●「花ちらす 風のやどりは たれかしる 我にをしへよ 行きてうらみむ」(花を散らす風の泊る宿はどこか、誰か知っているだろうか。私に教えてくれ。そこへ訪ねって言って恨み言を言おう。「古今集」桜を散らす風を、今夜の宿もわからない旅人にたとえています。)
●「我のみや あはれと思はむ きりぎりす 鳴く夕かげの やまとなでしこ」(私だけがあわれと思うだろうか。こおろぎの鳴く夕べの光の中に咲いている大和撫子の花よ。「古今集」)
●「たむけには つづりの袖も きるべきに 紅葉に飽ける 神やかへさむ」(お供えには私の粗末な僧衣の袖でも切り取って捧げるべきでしょうが、全山の美しい紅葉に飽きていらっしゃる神様は、私のお供えなんてお返しになるでしょう。「古今集」24番・菅原道真の「このたびは」の歌と同じ時の作です。)
エピソード
●「大和物語」には父の命令で出家したものの、恋をあきらめきれない素性法師(または兄、由性)の思いが描かれています。愛し合った女性との仲をさかれたため、思いを伝えるために、女性の兄の着物の衿(えり)に一首の歌を書きつけました。「白雲の やどる峰にぞ おくれぬる 思ひのほかに ある世なりけり」(白雲がかかる山に住むことになり、あなたとも逢えず、死んだ方がまし、と思いながら死に後れ、思いがけない人生をたどろうとしています。)
●素性法師は「和歌の名士」として宇多上皇のお気に入りの歌人でした。旅の途中で布留(ふる:天理市)に住む素性法師を呼び出し、吉野宮滝への旅に一週間ほどお供させています。その時24番・菅原道真もお供の一人として「このたびは 幣(ぬさ)も取りあへず 手向山(たむけやま) 紅葉のにしき 神のまにまに」の歌を詠んでいます。宇多上皇から褒美(ほうび)を頂いて素性法師が帰っていく姿を見て、道真は「人々おもへらく、今日以後、和歌の興、衰へむ」(人々は今日から後、和歌の楽しみが減るとがっかりしただろう。)と記しています。素性法師が歌会の中心的な存在であったことがうかがえます。
●はっきりした没年は分りませんが、70歳代まで石上布留(いそのかみふる)の良因院に住んでいて亡くなったようです。35番・紀貫之と29番・凡河内躬恒が哀傷歌を贈り合っています。紀貫之の「いそのかみ ふるくすみこし 君なくて 山の霞は 立ちゐわぶらむ」という歌に対して、躬恒は「君なくて ふるの山辺の 春霞 いたづらにこそ たちわたるらめ」と返しています。
●父の良岑宗貞(よしみねのむねさだ)は仁明天皇の信頼が篤く、天皇の死を悼んで出家しました。北区紫野にある雲林院は、常康親王(仁明天皇の第七皇子)が遍昭に託した寺です。素性法師は父の僧正遍昭に命じられて出家し、初めは雲林院に住んでいました。 ●その後、大和国石上の良因院の住持となりました。現在の奈良県天理市布留(ふる)町あたりにあった寺で、石上(いそのかみ)寺とも称し、寺領1町2反60歩(約4千坪)もあった大寺でした。今でも付近に西塔、堂の前、堂のかいと、堂のうしろ等と云う小字名が残っています。現在は「厳島神社」という小さな神社が良因院の跡地です。
●宇多上皇が吉野宮滝に御幸を行った時、お気に入りの歌人であった素性法師を布留から呼び出し、一週間ほど同行させたことが記録に残っています。 ●「たむけには つづりの袖も きるべきに 紅葉に飽ける 神やかへさむ」(お供えには私の粗末な僧衣の袖でも切り取って捧げるべきでしょうが、全山の美しい紅葉に飽きていらっしゃる神様は、私のお供えなんてお返しになるでしょう。)は、24番・道真の「このたびは」の歌と同じ時の作です。