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藤原義孝
(ふじわらのよしたか。954年~974年)
45番・謙徳公伊尹(けんとくこうこれただ)の3男という名家に生まれ、18歳で正五位下・右少将になりました。「大鏡」では「末の世にもさるべき人や出でおはしましがたからむ」(今後もこのような人は現れないだろう)とほめたたえたほどの美男で、優れた歌詠みでした。42番・清原元輔や源順らの歌人との交流が知られています。12歳の時、一条院の前で行われた連歌の会で、「秋はただ 夕まぐれこそ ただならぬ」の上の句に、「萩の上風 萩の下露」と、とっさに下の句をつけた才能に人々は驚きました。蔵人頭(くろうどのとう)の就任をめぐって、父・藤原伊尹に負けて死んだ藤原朝成(あさひら、または、ともなり)のたたりを信じ、自分の短命を予感していたらしく、若い頃から出家の思いが強かったようです。自ら殺生を禁じ、魚や鳥の肉を食べなかったと伝えられ、公務の合間にも法華経を唱えていたそうです。心優しい人柄で、源保光(やすみつ)の娘との間に能書家として有名な藤原行成(ゆきなり)をもうけました。ところが2年後、天延2年の9月16日、大流行した痘瘡(ほうそう:天然痘)にかかってわずか21歳の若さで亡くなりました。その日の朝に死亡した兄・挙賢(たかかた)の後を追うように夕方のことでした。その生涯は「今昔物語」などにも説話化されています。人々は若くして亡くなった義孝を惜しんだのか、近親や知友の夢に現れて歌を詠んだ話とか、極楽往生した様子を夢に見たという話がいくつも伝えられています。中古三十六歌仙の一人で、家集に「義孝集」があります。 |
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●「秋はなほ 夕まぐれこそ ただならね 荻の上風 はぎの下露」(秋はやはり夕まぐれが普通の心ではいられない。荻の上を吹いてゆく風と言い、萩の下葉に置いた露と言い。「義孝集」摂政藤原伊尹邸で連歌の催しがあり、「秋はなほ夕まぐれこそただならね」への付句に苦心していたところ、当時12歳だった義孝が進み出て「荻の上風はぎの下露」と続け、喝采(かっさい)を浴びたと「撰集抄」などに記されています。)
●「夕まぐれ 木こしげき庭を ながめつつ 木の葉とともに おつる涙か」(薄暗い夕方、木が繁っている庭を眺めながら、散る木の葉とともに落ちる涙よ。「詞花集」義孝の父、伊尹・一条摂政が、972年11月に亡くなりました。義孝はこの時19歳でした。)
●「しかばかり 契りし物を わたり川 かへるほどには 忘るべしはや」(あれほど固く約束したのに、私が三途の川から引き返す間に、忘れるなどということがあるのでしょうか。「後拾遺集」義孝は臨終の床で「死後もしばらく納棺は待ってくれ、経を最後まで読み通そうから」と姉妹の女御(姉の懐子か)に遺言したのですが、姉はその約束を忘れてしまって葬儀の準備などを進めてしまったので、その晩、義孝が母親の夢に現れて詠んだという歌です。)
●「時雨とは 千ぐさのはなぞ ちりまがふ なにふる里の 袖ぬらすらん」(ここでは時雨とは、さまざまの花が散り乱れる様を言うのです。どうして私の死を悲しんで袖を濡らしなどなさるのでしょう。「後拾遺集」亡くなった翌月、義孝は再び賀縁法師の夢にあらわれます。心地よげに笙(しょう)を吹いている様子なので、法師は「母君があれほど恋しがっておりますのに、なぜそのような様子でおられるのです。」と問うと、義孝は極楽浄土にいることを歌に詠みました。)
●「着て馴れし ころもの袖も かはかぬに 別れし秋に なりにけるかな」(着馴れた衣の袖もまだ乾かないのに、もう別れた秋が巡って来たのですね。「後拾遺集」亡くなった翌年の秋、姉の懐子の夢にあらわれて詠んだという歌です。) |
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●「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」や「十訓抄」の説話が有名です。寛平(かんぴょう)年間に宮中で行われた歌合に参加した際、友則は左列にいて「初雁(はつかり)」という秋の題で和歌を競うことになった時、「春霞(はるがすみ) かすみて往(い)にし 雁(かり)がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に」(春霞にかすんで飛び去った雁が、今また鳴くのが聞こえる。秋霧の上に)と詠みました。右列の人々は「春霞」という初句を聞いた時には、秋の歌題であるのに春の景色を詠みだしたので、季節が違うと思って笑い出しました。ところが、第2句で「かすみて往(い)にし」と続いたのでしんとなって聞き耳を立てました。聞き手を引き込んでいく友則の歌づくりの巧みさに感心したのです。これが友則の出世のきっかけになったといいます。なお、この歌は「古今集」では「題しらず
よみ人しらず」とされていますが、寛平期(889年~898年)は友則が歌人として一番充実していた時期でした。
●「今昔物語集」には義孝の人柄や生涯が説話化されいます。巻15には、魚鳥を口にしなかった義孝が、殿上人の酒席に呼び出されたところ、鮒(ふな)の卵であえた鮒の身のなますがあるのを見て、「母の肉に子をあえたものを食べるなんて」と涙を浮かべて立ち去ったいう話。亡くなった後、親友の夢に現れて「昔は宮中の月のもとで親交を結びましたが、今は極楽浄土の風に吹かれて自由な境地にあります」と答えたという話。また、巻24には、亡くなった後、知人の僧や妹の夢に現れてすばらしい和歌を詠じた話など、いずれも才色兼備(さいしょくけんび)の貴公子の早世を惜しみ、その信仰の深さによって、きっと極楽往生をとげたにちがいないという人々の願いが生み出したのかもしれません。
●「大鏡」にも、法華経を唱えながら世尊寺(せそんじ)に行き、西方浄土を念じていた話とか、死に臨んで、法華経を読誦するために必ずこの世に帰って来ると遺言した話など、熱心な仏教信仰の持ち主であった逸話が記されています。また、月明かりの夜に歩く姿、一条左大臣邸の梅の木に雪が積もっていたのを手折って雪が直衣にこぼれかかった姿など、折々の姿が感動するほど美しく、衣装なども季節にあった演出が素晴らしく、優雅であったと絶賛しています。義孝の父・藤原伊尹(これまさ)は、蔵人頭(くろうどのとう)の就任をめぐって藤原朝成(あさひら、またはともなり)と争ったらしく、敗北した朝成は、「この族永く絶たむ。若し男子も女子もありとも、はかばかしくてはあらせじ。あはれといふ人もあらば、それをも怨みむ」(この一族を永久に絶やしてやろう。もし男子なり女子なりがあっても、順調には進ませないぞ。これを気の毒だという者があったら、それも恨んでやろう)と誓って亡くなったので、代々にたたる悪霊となったと記されています。 |
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●義孝は仏教信仰が深く、まじめな青年でした。滋賀県大津市にある石山寺に2回訪れたことが記録に残っています。平安時代に、石山詣がブームになり、多くの貴族が参詣しました。 |
●平安京の一条の北に、天皇の食事に使う野菜や果実を栽培する菜園の京北園があり、桃の木などが残ったことから桃園と呼ばれ、桃園邸(桃園第、桃園宮)として皇族や貴族が住みました。 |
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●義孝の息子・行成は桃園邸を寺院として寄進し、世尊寺(せそんじ)を創建しました。現在の一条大宮通付近です。 |
●義孝が毎日世尊寺にお参りしていた道順まで「今昔物語集」にはくわしく描かれています。 |
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