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和泉式部
(いずみのしきぶ。976~978年生年~1030年頃)
1000年頃の人で、父は越前守・大江雅致(えちぜんのかみ・おおえまさむね)。母は昌子内親王家の女房でした。幼い頃より華やかな内親王家で育ったため、16、7歳頃から歌の才能を認められていました。最初の夫は、親子に近い年齢差があった和泉守・橘道貞(いずみのかみ・たちばなのみちさだ)で、和泉式部の名前で呼ばれるようになりました。20歳の頃に生んだ娘が、60番・小式部内侍です。平安時代の代表的歌人で、中古三十六歌仙の一人です。 「拾遺集」以下の勅撰集に女流歌人として最多の242首選ばれました。男性から恋歌の代作まで頼まれています。和泉式部は恋多き女性で、道貞との間に第2子が生まれる頃には夫婦仲も冷め、冷泉天皇の第三皇子、為尊(ためたか)親王と結ばれます。世間からの非難、夫からは離婚、父親の雅致からは勘当されました。(道貞は優れた地方官であり、離婚後も子どものことは心にかけて、折々の連絡は保っていたらしいです。)為尊親王が26歳の若さで病死すると、1年もしないうちに、その弟・敦道(あつみち)親王=帥宮(そちのみや)とも結ばれます。和泉式部が宮の邸に移り住み、宮の正妻が邸から実家に帰ってしまうと、55番・藤原公任の白河院に花見に出かけたり、牛車に同乗して葵祭を見物したりと、世間に挑戦するような熱愛ぶりだったといいます。ところが、4年後、敦道親王も27歳の若さで病死します。敦道親王亡きあと、和泉式部は追悼の歌を120首余りに及ぶ連作形式で詠んでいます(「和泉式部集」)。悲しみの中にも生前の深い愛情の交流が伝わります。和泉式部の歌才を認め、失意の彼女に生きる場を与えたのが最高権力者・藤原道長です。召されて一条天皇の中宮彰子(道長の娘)のもとに、娘の小式部内侍とともに仕えます。女房の中には57番・紫式部や59番・赤染衛門もいました。道長の信望が厚かった丹後守・藤原保昌(たんごのかみ・ふじはらやすまさ)とも結婚、丹後に下ったのは、三十数歳の頃です。晩年は娘の小式部にも先立たれ、不遇だったようです。和泉式部の家集には娘の死を悼む歌が多く残されています。仲の良い母娘だったことがうかがわれます。敦道親王との恋愛を物語風に描いたのが有名な「和泉式部日記」です。 |
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●「黒髪の 乱れも知らず うち臥せば まづかきやりし 人ぞ恋しき」(思い乱れ、髪を乱したまま床にふしていると、その時まっ先に恋しく思い浮ぶのは、(昨夜この床で)私の黒髪をかき上げてくれたあの人のことです。「後拾遺集」情熱的で官能的な和泉式部の代表作です。)
●「物思へば 沢の蛍(ほたる)も わが身より あくがれ出づる 魂(たま)かとぞ見る」(恋しさに思い悩んでいると、水辺に飛び交う蛍の光も、私の身体からさまよい出た魂ではないかと見ることです。「後拾遺集」恋人の訪問が絶えていた頃、貴船(きぶね)神社に参詣し、御手洗川(みたらしがわ)に蛍が飛ぶのを見て詠んだ歌です。保昌に捨てられた折のせつない歌です。)
●「今はただ そよそのことと 思ひ出でて 忘るばかりの 憂きこともがな」(帥宮に先立たれた今はただ、「そう、そんなことがあった」と楽しいことを思い出しては泣くばかりで、いっそ宮のことを忘れたくなる程の辛い思い出があればよかったのに。「後拾遺集」帥宮は寛弘四年(1007)10月2日、27歳の若さで亡くなりました。)
●「捨てはてむと 思ふさへこそ 悲しけれ 君に馴(な)れにし 我が身と思へば」(いっそ身を捨てて尼になろうかと思いながら、そう思うことさえ切ないのだ。あの人に馴れ親しんだこの身体だと思えば。「後拾遺集」帥宮哀悼歌。)
●「とどめおきて 誰をあはれと 思ふらむ 子はまさるらむ 子はまさりけり」(親をこの世に残して娘は旅だったが、あの世で誰のことをいとおしく思い返しているだろうか。やはり、子どもであろう。私だって娘との死別が何よりつらいのだから。「後拾遺集」娘の小式部が病死した時、孫たちがいるのを見て詠んだ哀傷歌です。)
●「今宵さへ あらばかくこそ 思ほえめ 今日暮れぬまの 命ともがな」(今夜さえ生きていたら、またこんなに辛い思いをすることでしょう。いっそ今日の日が暮れないうちに死んでしまいたい。「後拾遺集」毎夜通って来ようと言って、来なかった男に、ある日の早朝贈った歌です。)
●「津の国の こやとも人を いふべきに ひまこそなけれ あしの八重(やへ)ぶき」(摂津(せっつ)の国の昆陽(こや)という地名のように「来(こ)や」、来てほしい、とあなたに言うべきなのですが、蘆(あし)の八重葺(やえぶ)きの小屋(こや)に隙間(すきま)がないように、人目の隙(すき)がなくて言えないのです。)
●「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」(煩悩(ぼんのう)の闇から闇に迷いこんでしまった私の行く手をはるかに照らしてください、山の尾根近くの月よ。「拾遺集」10代後半の作らしいですが、生前から評判の高かった歌で、鴨長明は「無名抄」で彼女の代表歌としました。山の月と見立てた高僧・性空上人に救いを求めた一首で、後世、仏にすがる遊女が唱えた歌です。)
●「白露も 夢もこの世も まぼろしも たとへて言へば 久しかりけり」(どれほどはかない物であっても恋に比べたらすべてが久しい。「後拾遺集」恋部全巻の軸歌(綴じ目の歌)です。) |
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●「紫式部日記」には和泉式部の個性を的確についた批評があります。「和泉式部といふ人こそ、面白う書き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことのうたよみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目とまる詠み添へ侍り。…口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに侍るかし。」(和泉式部という人とは、実に趣深く手紙をやりとりしたものです。しかし和泉には感心しない行動があります。気軽に手紙を走り書きした場合、その方面の才能のある人で、ちょっとした言葉にも色艶(いろつや)が感じられます。和歌はたいそう興深いものです。でも古歌の知識や歌の理論などは、本当の歌人というふうではないようですが、激情のままに口にまかせて詠む歌に必ず興のある一節、目にとまるものがあります。…自然にすらすらと歌が詠み出されるたちの人なのですね。) 恋文や和歌は素晴らしいが、素行はいただけないと批判して、欠点も指摘していますが、泉式部の天性の才能をうらやましく思っているのが伝わってくるようです。情熱的な短歌で有名な与謝野晶子も、和泉式部を深く尊敬しましたが、夫の鉄幹(てっかん)から「まだ和泉式部に及ばない」と言われ、がっくりしたそうです。
●和泉式部の「津の国の」の歌の素晴らしさについては、歌学書「俊頼髄脳(としよりずいのう)」に55番・藤原公任のほめ言葉が紹介されています。「津の国の昆陽(来や)とも人を」と表現して、さらに小屋を連想させ、「隙(ひま)こそなけれ」と表現した詞は、凡人の考えつけるようなことではない。すばらしい発想だと強調されています。
●和泉式部の夫の藤原保昌は、頼光のもとで大江山の鬼を退治した逸話がありますが、その恩賞に何を望むかと問われて「和泉式部」と答えたそうです。 |
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●宮津市文殊の天橋立神社近くに「磯清水」という井戸があります。「磯清水」は四面海水の中にありながら、少しも塩味を含んでいない不思議な名水として、和泉式部も「橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし」と詠ったと伝えられています。 |
●また、近くには赤松(女松)のほっそりした美しい姿であることから、和泉式部になぞらえた「式部の松」があります。 |
●新京極三条にある誓願寺は清少納言や和泉式部が帰依した寺と伝えられています。 |
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●和泉式部が丹後で詠んだ歌はいくつか知られていますが、 京都府宮津市の智恩寺文殊堂近くに和泉式部の歌塚があります。和泉式部が書き捨てた和歌を、丹後守藤原公基が持ち帰って埋めた塚であるという伝説が残っています。 |
●中宮・結社の境内には和泉式部の「物思へば」の歌碑の前に、縁結びの願いを書く「結び文」のコーナーが設けられていました。 |
●貴船神社は恋を祈る社として信仰されいて、和泉式部も参拝しています。昔はススキなどの細い草を神前に結びつけて祈願しました。 |
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