プロフィール 右近

右近
(うこん。生没年不明)

  鷹匠(たかしょう)であった右近少将・藤原季縄(すえただ)の娘(一説には妹)。その官名から「右近」と呼ばれています。10世紀前半の人で、醍醐天皇の中宮穏子(おんし)に仕えた女房です。「天徳4年(960年)内裏歌合」や「応和(おうわ)2年内裏歌合」「康保(こうほう)3年内裏前栽合」などに出て活躍し、歌才を認められていました。「忘らるる」の歌は、右近の代表作として「女房三十六人歌合」にもとられています。恋多き女性で、20番・元良親王、43番・藤原敦忠(あつただ)、藤原師輔(もろすけ)・44番・藤原朝忠(あさただ)、源順(みなもとのしたがう)などとの恋愛が知られています。貞女という評判もありますが、男性との関係は長続きしなかったようで、男性に捨てられる立場で詠んだ歌が多いです。「大和物語」には、右近が男に心をひかれながら、思うようにならないつらい気持ちを詠んだ歌が集められています。
代表的な和歌
●「逢ふことを 待つに月日は こゆるぎの 磯にや出でて 今はうらみん」(あなたが訪ねて来ることを待っていると、月日は限度を越えてしまい、心は動揺しますので、こゆるぎの磯に出て浦を見る、いいえ、あなたを恨みましょうか。「後撰集」歌枕に寄せて、久しく訪れない男への思いを詠んだ歌です。「恨みむ」・「浦見む」の掛詞。)
●「おほかたの 秋の空だに わびしきに 物思ひそふる 君にもあるかな」(ありふれた秋の空でさえわびしいものなのに、(訪れてもくれない)あなたは私にさらに物思いをさせてくれるというのですね。「後撰集」男の訪れが長く途絶え、晩秋九月に贈った歌です。秋に「飽き」をかけています。)
●「身をつめば あはれとぞ思ふ 初雪の ふりぬることも 誰に言はまし」(我が身をつねってみますと、つくづくと悲しいなあと思います。初雪が降っていますが、年をとって古びていく私の様子を、誰に言えばよいのでしょうか。「後撰集」ふりぬるは「降りぬる」・「旧りぬる」の掛詞。恋人に飽きられるという意味です。)
●「思はむと 頼めし人は ありと聞く 言ひし言の葉 いづちいにけむ」(わたしが愛の言葉を信じたあの人は今も無事でいると聞きましたが、おっしゃったあの言葉はどこに行ってしまったのでしょうか。「後撰集」)
●「から衣 かけてたのまぬ 時ぞなき 人のつまとは思ふものから」(神かけてあなたを頼りに思わない時はありません、他人のものとは知っていながらも。「後撰集」他の人の男と恋をしたというのは、男性に正妻があったのかもしれません。)
エピソード
「大和物語」には右近の恋歌をめぐる逸話が記されています。
●81段 里下がりをした右近が、訪れのない敦忠のことを人に尋ねると宮中で元気にしていると聞き、歌を贈っています。「忘れじと 頼めし人は ありと聞く 言ひし言の葉 いづちいにけむ」(忘れまいと頼みに思わせてくださった人は、ご無事であると聞いていますが、おっしゃった言葉・約束はどこに行ってしまったのでしょうか)。
●82段 敦忠がまったくたよりも寄こさず雉だけ贈ってきたので、その返事に「栗駒(くりこま)の 山に朝たつ 雉よりも かりにあはじと 思ひしものを」(栗駒の山に朝とび立つ雉が、狩りをする人には出あわないようにしようと思う以上に、私もかりそめには契りを結ぶまいと思っておりましたのに。)
●83段 相手は蔵人頭の藤原師輔です。右近が宮中の局に住んでいた時、人目をしのんで通っていました。雨の降る夜、師輔が局のそばに立ち寄ったところ、雨が漏ったので、右近は敷物を裏返そうとして、「思ふ人 雨と降りくる ものならば わがもる床は かへさざらまし」(恋しく思われるあの方が、雨となって降ってきてくださるのでしたら、ぬれたからといって、私が一人で守り通してきた床を裏返さず、この私の床からお帰しもしないでしょうに。)と詠みました。師輔はしみじみとした気持ちになって局に入ったのでした。
●85段 大納言・藤原師氏(もろうじ:26番・忠平の子)との話です。世間で「桃園の宰相の君(師氏)が右近の所に通っておいでになる」とさわぎになったのですが、それは根も葉もないことだったので、こんな歌を師氏に贈りました。「よし思へ 海人(あま)のひろはぬ うつせ貝 むなしき名をば 立つべしや君」(いっそのこと私を愛してください。漁師の拾わないうつせ貝のように、実のない浮き名を立ててよいことでしょうか、あなたは。)「うつせ貝」とは肉がなくなって、からになった貝のことです。恋愛もしていないのにうわさをたてられるのはばからしいから、いっそのこと本当に私のことを愛してくださいという意味の歌です。
●右近の父親・右近少将・藤原季縄(すえただ)は鷹匠(たかしょう)でした。醍醐天皇をはじめ、平安時代初期の天皇は鷹狩を好みました。 ●伏見区にある醍醐寺は、醍醐天皇と中宮穏子(おんし)が帰依した寺です。右近は穏子に仕えた女房でした。
●三重県四日市市の昭和幸福村公園にある歌碑には、右近の姿が描かれています。 ●恋愛関係にあった男性は、43番・藤原敦忠以外にも、20番・元良親王、、藤原師輔(26番・忠平の息子)、44番・藤原朝忠、源順、源保光など、恋多き女性でした。嵯峨嵐山文華館の展示から、それぞれの人物を探してみるのも楽しいでしょう。