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蝉丸
(せみまる。生没年未詳。850年~900年。)
平安前期の人という程度しか分からず、後から伝説化された歌人のようです。出家者ではなく隠者です。蝉丸という名前から、蝉歌(せみうた:蝉のようにしぼり出して発声する歌の類)の名手であったともされていて、諸国をさすらい歩く吟遊(ぎんゆう)詩人の一人と考えることもできます。「今昔物語」では宇多天皇の第八皇子・敦実(あつみ)親王の雑色(ぞうしき:雑務をしていた下役人)で、皇子の琴の演奏を聞くうちに秘曲(ひきょく)まで弾けるようになったとされています。また、「平家物語」などによると醍醐(だいご)天皇の第四皇子でありながら、盲目(もうもく)であったため捨てられたというのです。いずれも逢坂(おうさか)の関近くに庵を結んだ琵琶(びわ)の名手ということのようです。なお、その伝説をもとに能の「蝉丸」、浄瑠璃「せみ丸」(近松門左衛門)などが作られ、いつしか歌舞音曲(かぶおんぎょく:歌と踊りと音楽)・芸能の神様として信仰されるようになりました。「関蝉丸神社下社」では、毎年5月に芸能祭が開催されています。勅撰集に4首入集しています |
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●「世の中は とてもかくても おなじこと 宮も藁屋(わらや)も はてしなければ」(この世の中は、どう過ごそうと同じことだ。華やかな宮殿も、粗末な藁屋も、最後にはなくなってしまうのだから。「新古今集」※「今昔物語」では、蝉丸の家があまりにみすぼらしいので、最初は博雅自身が訪れず、使いをやって「どうしてそのような思いもよらぬ所に住んでいるのか。京に来て住んだらどうか。」と言った時に、蝉丸は返事をせず、この歌を詠じたとされています。)
●「逢坂の 関の嵐の はげしきに しひてぞゐたる 世を過すとて」(逢坂の関を吹く風があまり激しくて、目の見えぬ私はじっとすわり続けていることだよ、この一夜を眠りもせずに過ごそうとて。「続古今集」※「今昔物語」では、八月十五夜に蝉丸が一人興のおもむくままにこの歌を詠じつつ、琵琶を弾いています。)
●「秋風に なびく浅茅(あさぢ)の 末ごとに 置く白露の あはれ世の中」(秋の風に揺れる茅の葉の先々に付いた露のように、いかにもはかなく散ってしまいそうな世の中である。「新古今集」) |
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●伝説の多い人物で、「今昔物語」巻24の「源博雅朝臣(みなもとのひろまさあそん)会坂(おうさか)の盲(めしい)のもとに行くこと」には、盲目の琵琶法師・蝉丸が弾く琵琶の秘曲『流泉(りゅうせん)・啄木(たくぼく)』を聴きたいと願い、逢坂の関の草庵に通い続けた源博雅の話があります。3年目の八月十五夜、琵琶をかき鳴らしながら「ああ、趣深い夜だなあ。もしやこの世に私のほかに趣を知る人がいないものか。今夜、管弦(かんげん)の道のよくわかる人が訪れてくれれぱよいのになあ。語り合いたいものだ」という蝉丸のひとり言を聞いて、博雅が「京に住まいする博雅という者がここに来ておる」と名のり出て、3年間、庵の近くで立ち聞きしていたと打ち明けると、蝉丸は喜び、庵の中で語り合います。その後、蝉丸は「亡き式部卿宮はかようにお弾きなされました」と言って秘曲を伝えます。博雅は口伝えでこれを習い、返す返すも喜びながら夜明けになって帰って行きました。
●「無名抄(むみょうしょう)」には仁明(にんみょう)天皇の勅使として12番・良岑宗貞(遍昭)が、蝉丸に和琴を習いに行ったとされています。
●「平家物語」巻10「海道下(かいどうくだり)」に、捕虜(ほりょ)として鎌倉に下る平重衡(たいらのしげひら)が逢坂の関を通る部分に蝉丸の話が載っています。「ここは昔、醍醐(だいご)天皇第四皇子の蝉丸が、関を吹き渡る嵐に耳を傾け、一心に琵琶をひいておられたところに、博雅(はくが)の三位という人が、風の吹く日も吹かぬ日も、雨の降る夜も降らぬ夜も、毎日毎日三年間やって来て立ち聞きして、あの琵琶の秘曲の三曲を受け伝えたというが、その昔の藁屋(わらや)の床も想像されて感慨が深い。」と記されています。
●鴨長明の「方丈記」には「粟津の原を分けつつ、蝉歌が翁が跡をとぶらひ、田上河をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。」(粟津の原を通って、蝉丸の旧跡をたずね、田上川をわたって猿丸大夫の墓に参ることもある。)と記しています。 |
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●逢坂の関の周辺には、蝉丸を奉った神社が三社も残っていて、関の守り神のようです。蝉丸神社の石碑に「これやこの」の歌が紹介されています。 |
●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では、100基の歌碑めぐりを楽しめます。「これやこの」の歌碑は、 奥野宮地区の野宮神社のそば、竹林に囲まれたエリアにあります。 |
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●吉水神社(よしみずじんじゃ)には、蝉丸の琵琶(びわ)が伝わっています。後醍醐天皇が吉野に南朝を開いた時、吉水神社を仮宮(かりみや:天皇が旅先に仮に造った宮)と定め、さまざまな宝物を持ちこみました。その中の一つです。 |
●関蝉丸神社上社は国道一号線ぞいの階段を登ったところにあります。 |
●関蝉丸神社下社では音曲芸能の神として祀らています。京阪京津線が参道を横切っていて、境内には、「これやこの」の歌碑があります。 |
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