プロフィール 大納言経信

大納言経信
(だいなごんつねのぶ。1016年~1097年)

  民部卿(みんぶきょう)・源道方(みちかた)の6男で源経信(みなもとのつねのぶ)です。母は源国盛の娘です。源氏の中でも「宇多源氏」という名門氏族の出身で、14歳の8月に、父の道方が権帥として大宰府に赴任したのに同行しましたが、間もなく帰京しています。長谷に隠棲する公任を訪問したのは18歳の夏で、69番・能因法師や65番・相模が歌を競い合う頼通歌壇で影響を受けました。参議・権中納言を経て正二位大納言にまで昇進した権力者です。大納言経信と呼ばれました。桂の里に別荘があったため、桂大納言ともいいます。和歌・漢詩・管弦(琵琶の名手)に優れ、55番・藤原公任と並び「三船の才」とたたえられました。また、蹴鞠(けまり)もうまく、朝廷の礼式や作法などの「有職(ゆうそく)」に関しても深い知識を持っていました。和歌については風格のある叙景歌を多く詠み、歌壇に新風をもたらしました。後三条朝の重臣でしたが、摂関家と親しかったため白河天皇からは疎まれ、藤原通俊が撰進した「後拾遺集」の撰者にはなれませんでした。「後拾遺問答」「難後拾遺」を著し批判しています。晩年の堀河天皇時代には歌壇の指導者として、歌合の判者を務めました。歌人の出羽弁は若い頃の年上の恋人で、61番・伊勢大輔や65番・相模とも歌のやりとりがあります。晩年の寛治8年(1094)には大宰権帥(だざいのごんのそち)として任地に赴き、翌々年の正月、82歳で亡くなりました。大宰府は国際交流の最前線です。博多の唐人が大勢で弔問に来たことが、息子の俊頼の家集に記されています。85番・俊恵法師は孫にあたります。
代表的な和歌
●「ふるさとの 花の盛りは 過ぎぬれど 面影さらぬ 春の空かな」(ふるさとの花の盛りは過ぎてしまったけれど、盛りの様子が目に浮かんで消え去ることのない春の空であるなあ。「新古今集」昔から慣れ親しんだ里、吉野ではと言われています。)
●「三島江の 入江の真菰(まこも) 雨降れば いとどしをれて 刈る人もなし」(人でにぎわう三島江の真菰も、雨が降っている今日はいっそうぬれそぼって刈る人影もないなあ。「新古今集」池や川に生える真菰は、茎や葉を刈り取ってむしろに編みました。「三島江は、現在の大阪府高槻市の淀川沿岸にあたります。)
●「月影の 澄みわたるかな 天の原 雲吹きはらふ 夜半(よは)の嵐に」(月の光の澄みわたることよ、空の雲を吹きはらう夜中の嵐によって。「新古今集」)
●「沖つ風 吹きにけらしな 住吉の 松の下枝(しづえ)を 洗ふ白波」(沖では風が吹いたらしいな。住吉の岸辺の松の下枝を洗う白波よ。「後拾遺集」後三条院の住吉社参詣の折の詠作です。経信の自讃歌であり、死の直前、息子の俊頼を呼んで、この歌を「古今集」の29番・躬恒の歌と比べさせた話が「袋草紙」に記されています。)
●「よろづ代に かはらぬものは 五月雨の しづくにかをる 菖蒲(あやめ)なりけり」(万代にわたって不変のものは、五月雨のしずくにぬれて香る、軒の菖蒲草なのだなあ。「金葉集」菖蒲根合とは、左右に分かれて菖蒲の根の長短などを競い合った遊びです。人の世は移ろうとも、毎年飾られる菖蒲のみずみずしい美しさは変わらない、とほめたたえています。)
●「神垣に むかしわが見し 梅の花 ともに老木(おいき)と なりにけるかな」(神社の垣で昔私が見た梅の花は、私が老いるのと共に、老木になったのだなあ。「金葉集」の詞書によると父通方(みちかた)が大宰権帥として筑紫に赴任し、14歳であった経信も同行しましたが、それから66年後、経信は父と同じく大宰権帥に任命されました。かつて安楽寺(大宰府天満宮の神宮寺)で見た梅の花が老木となって咲いているのを見て詠んだ歌です。経信はこの時81歳。亡くなったのは翌年春のことでした。)
エピソード
●「十訓抄」に「三船の才」に関わる逸話が残っています。白河院が大堰川に遊んだ時、漢詩・和歌・管弦の船を用意して、その道の達人を乗せました。経信はわざと遅刻して現れ、渚にひざまづき、「いづれの船なりともよせ給へ」(どの船でもよいから寄せてくれ)と呼びかけました。それで、管弦の船に乗り、漢詩と和歌を白河院に献上して、自分の才能をアピールしたようです。
●彼の詠風は、息子である74番・源俊頼を通じて、83番・俊成、97番・定家、99番・後鳥羽院から高い評価を受けました。「かの大納言の歌の風体は、又殊にたけをこのみ、ふるき姿をのみこのめる人とみえ」(あの大納言経信の歌の詠みぶりは、とりわけ歌の格調の高さを好み、古い姿ばかり好んだ人と思われ、「古来風体抄」)という俊成の言葉や、「大納言経信、殊にたけもあり、うるはしくして、しかも心たくみに見ゆ」(「後鳥羽院御口伝」)という後鳥羽院の言葉が残っています。
●後三条院の住吉社参詣の折に詠んだ「沖つ風 ふきにけらしな 住吉の 松のしづ枝を 洗ふ白波」(沖では風が吹いたらしいな。住吉の岸辺の松の下枝を高くなった白波が洗っている。「後拾遺集」)は自信作です。 ●「三船の才(漢詩・和歌・管絃)」で名高い55番・藤原公任の再来だとたたえられました。白河院が大堰川に遊んだ時、経信はわざと遅刻して現れ、管弦の船に乗り、漢詩と和歌を白河院に献上しました。
●特に琵琶の名手で、桂流の琵琶は経信にはじまります。白河天皇が宮廷の名器・琵琶牧馬(ぼくば)を弾かせたことが「古今著聞集」に記されています。 ●桂の里に別荘があったため、桂大納言とも呼ばれました。梅宮神社から桂川を下った桂離宮辺りではないかといわれています。(西京区桂御園) ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「夕されば」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。