プロフィール 小野小町

小野小町
(おののこまち。生没年未詳、820年~870年頃。)

  伝説の美女で、六歌仙、三十六歌仙の一人。平安初期の女流歌人としてナンバーワンとされる人です。出羽国の郡司、小野良真(おののよしざね)の娘であるとか、11番・小野篁(おののたかむら)の孫であるとか、諸説ありますが正確な経歴は分かっていません。仁明天皇の更衣(こうい:天皇に仕える女官)小野吉子かと言われています。「小野小町」という呼び名は「小野家の妹娘」という意味で、「古今集」には「小町姉(こまちがあね)」とあるので、姉がいたとか、「後撰集」には「小町孫(こまちがまご)とあるので、孫がいたとも言われていますが、はっきりしません。仁明・文徳朝(833年頃~858年頃)に活躍し、安倍清行(きよゆき)、小野貞樹(さだき)、22番・文屋康秀(ぶんやのやすひで)との贈答歌が有名です。17番・在原業平の恋人だったとも言われています。小町の歌をもとに、多くの伝説が生まれました。「卒塔婆(そとば)小町」や「通(かよい)小町」など、老いさらばえて落ちぶれた人生のはかなさを表現した謡曲など数多く書かれています。晩年衰えて逢坂の関のあたりで物乞(ものご)いをして歩いていた話や、荒れ野でドクロとなった小野小町が、現世に未練を残した幽霊(ゆうれい)として登場したりします。それほど小町の歌が後世の文学に与えた影響は大きいのです。その土地の美人のことを「○○小町」などと言うのも小町伝説の影響です。御伽草子(おとぎぞうし)、歌舞伎(かぶき)の題材にもなっています。
代表的な和歌
●「思ひつつ 寝(ぬ)ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」(恋い慕いながら寝たので、あの人が夢に見えたのでしょうか。夢と分かっていたなら覚めずにいたのに。「古今集」※「伊勢物語」の異段中にもこの歌が使われています。)
●「恋ひわびぬ しばしも寝ばや 夢のうちに 見ゆればあひぬ 見ねば忘れぬ」(恋しさの果てに疲れきってしまいました。しばらくだけでも眠りたい。もし夢にあなたを見れば、逢えたということ、夢に見なければ、せめて眠っている間は忘れてしまえます。「新千載集」)
●「うたたねに恋しき人を見てしより夢てふ物は頼みそめてき」(うたた寝で恋しいあの人を見てからというもの、はかない夢というものでも頼もしく思いはじめてしまいました。「古今集」) 
●「いとせめて 恋しきときは うばたまの 夜の衣を 返してぞ着る」(恋しさが私をせめつけてどうにもならない時、私は夜の衣を裏返しに着て寝るのです。「古今集」)
●「吹き結ぶ 風は昔の 秋ながら ありしにも似ぬ 袖(そで)の露(つゆ)かな」(風が吹いて露を結ぶ、その風は昔の秋さながらに吹いていますが、以前とは似ても似つかない私の袖の涙であることよ。「新古今集」)
●「色見えで 移ろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける」(花の色の移ろいは目に見えるものですが、色が見えないで移り変わってしまうものは人の心という花だったのですねえ。「古今集」)
●「わびぬれば 身を浮草の 根をたえて 誘ふ水あれば いなむとぞ思ふ」(ちょうどふさぎこんでいたので、誘ってくれる人がいれば、浮草のようにどこへでもついて行こうと思っていたのです。「古今集」歌友であった文屋康秀から、「私の任国・三河国を見に出かけられないでしょうか」と誘われた時の返歌です。いなむは「去なむ(行ましよう)」とも「否む(お断りします)」ともとれます。)
●「みるめなき わが身をうらと 知らねばや 離(か)れなで海人(あま)の 足たゆく来る」(いくら言い寄られても、逢うつもりのない私だと知らないで、あなたは毎夜欠かさず足がだるくなるまで通って来るのでしょうか。まるで、海松布(みるめ)の生えない浦だとも知らずに訪れる海人のように。「古今集」この歌から深草少将の百夜通いの説話が生まれたのかもしれません。)
エピソード

●「古今集」の撰者だった紀貫之は、その「仮名序(かなで書かれた序文)」で、小野小町の歌について「あはれなるやうにて、つよからず。いはばよき女の悩める所あるに似たり」(しみじみと身にしみるところはありますが、弱々しいです。いうなれば病に悩んだ高貴の女性に似ています。)と、身にしみる情と、しなやかで優しい文体を評価しています。「古今集」の巻12の恋歌二の巻頭には、夢に関する小町の歌が3首連作風に配列されています。恋愛歌人として小町を評価したためでしょう。
●同じく「仮名序」には「いにしへの衣通姫(そとおりひめ)の流なり」と記されています。衣通姫とは美しさが衣を通して輝いていたという女性のことで、小町も評判の美人だったようです。美しさゆえに平安末期以降、様々な小町伝説が生み出されました。深草少将は、小野小町が地方へ下った後も恋するあまり、官職をなげうって小町の家へ出向きます。小野小町は疱瘡(ほうそう)を病んでいたために治るまでの時間かせぎとして、「もし私に会いたいなら、毎日私の庭に1本づつシャクヤクの花を植えてください。それが100本になったら、あなたとお会いしましょう」と告げます。そこで深草少将は毎日小町の家の門前に来て花を植えますが、ちょうど今日で100本というその日、嵐によって橋が流され、少将は濁流(だくりゅう)にのまれて、死んでしまいます。「通(かよい)小町」は、小町に恋した深草少将が、百夜通えば愛を受け入れるという小町の言葉を信じ、牛車で通いつめますが、99夜目に息絶えたという話です。「卒都婆(そとば)小町」は、朽ちた卒都婆に腰かけた乞食の老女が仏道に入る話ですが、その老女は深草少将の霊にとりつかれた小町のなれの果てで、旅僧の前で、百夜通いのありさまを語りつつ舞うという話です。また「関寺(せきでら)小町」は、関寺の僧が寺の近くに住む老小町から歌の道を聞くという物語で、華やかであった昔と現在との対比が語られます。「鸚鵡(おうむ)小町」は、新大納言行家が天皇の与えた歌の返歌を求めて関寺近くに老いた小町を訪ねるという筋になっています。この四曲に「草子洗(そうしあらい)小町」、「雨乞(あまごい)小町」「清水(しみず)小町」を加えて七小町(ななこまち)といい、江戸時代には七小町が歌舞伎の題材、浮世絵の画題などにしばしばとりあげられました。
●小野小町の墓や歌碑は補陀落寺(ふだらくじ)にもあります。補陀落寺は、中世には廃寺となりましたが、観阿弥の謡曲「通小町(かよいこまち)」の舞台にされたことから、9番・小野小町の亡くなった地として広まり、小町寺として親しまれています。境内には、深草少将と小町の供養塔、姿見の井戸、あなめの薄(すすき)など故事にまつわるものが多くあります。  ●京都市東区にある東福寺・退耕庵(たいこうあん)の小町堂には「玉章地蔵(たまづさじぞう)」があります。この地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)は老後の小町の作と伝えられ、像の内部には小町に贈られた数多くの恋文が収められていたといいます。 ●山科の随心院(ずいしんいん)にも小町の文塚や化粧井戸(けわいのいど:朝夕顔を洗った)があります。3月の最終日曜日には小町に扮した少女が踊る「はねず踊り」が行われます。
●小町が草子を洗った小町雙紙洗水碑。井戸水のあったところと伝えられています。(京都一条通そば) ●小町化粧水碑(けしょうのみずひ)は小町の別荘があった西洞院四条の南にあります。この地の井戸水を使っていたと伝わっています。現在は京栗菓匠「若菜屋」が建ってています。 ●関蝉丸(せきのせみまる)神社下社の境内には、謡曲「関寺小町」にもとづく小町塚があります。