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権中納言匡房
(ごんちゅうなごんまさふさ。1041年~1111年)
本名・大江匡房(おおえまさふさ)で、大江匡衡(まさひら)と59番・赤染衛門夫婦のひ孫です。父成衡(しげひら)は大学頭(かみ)、母も文章博士(もんじょうはかせ)の娘という学者の家系である大江家に生まれました。4歳で読書を始め、8歳の時には中国の歴史書「史記」や漢文で書かれた書物を読み終えていたそうで、神童と呼ばれ、24番・菅原道真と比較されました。16歳で文章生(もんじょうしょう:大学寮で詩文・歴史を学ぶ学生)に選ばれた後、18歳で官吏登用のための最高の国家試験「対策」に合格しました。正二位権中納言・大宰権帥(だざいごんのそち)まで出世したのは、学者としては異例のことでした。白河院の近臣として院政に参与した大政治家であるとともに、一流の文化人でもありました。和歌や漢詩の他、多数の著書を残しています。有識故実(ゆうそくこじつ:儀式や法令などの伝統的なしきたり)の大事典「江家次第(ごうけしだい)」、説話集の「江談抄(ごうだんしょう)」」「本朝神仙伝」などには一般庶民が知らない高級官僚たちの逸話がみられます。また、当時の風俗を記録した「狐媚記(こびき)」「傀儡子記(くぐつき)」「遊女記」は、社会の底辺にある人々の活力にふれることができます。和歌については、内裏・後宮の歌合や歌会に参加するとともに、自邸でも歌合を催すなど、当代を代表する歌人として尊敬されていました。歌集「堀河百首」の制作に参加し、「江帥集(ごうのそちしゅう)」に数百の歌を残しています。後三条・白河・堀河の3代にわたり侍読(じどく:天皇に学問を教える学者)をつとめたので、墓誌銘には「三帝の師」と刻まれました。 |
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●「氷ゐし 志賀の唐崎(からさき) うちとけて さざ波よする 春風ぞ吹く」(凍りついていた志賀の唐崎の汀(みぎわ)はすっかり氷がとけて、さざ波を寄せる春風が吹いている。「詞花集」志賀の唐崎は滋賀県大津市唐崎、琵琶湖の西岸です。)
●「白雲と 見ゆるにしるし みよしのの 吉野の山の 花ざかりかも」(山に白雲がかかっているように見えるのではっきり分かる。吉野の山の花盛りなのだ。「詞花集」鴨長明の「無名抄」では俊恵がこの歌を「是こそはよき歌の本とは覚え侍れ。させる秀句もなく、飾れる詞もなけれど、姿うるはしく清げにいひ下して、たけ高くとほしろきなり」。と高く評価しています。)
●「秋来れば 朝けの風の 手をさむみ 山田の引板(ひた)を まかせてぞ聞く」(秋になると、夜明けの風にあたる手が寒いので、山田の鳴子(なるこ)を風の鳴らすのにまかせて聞いているばかりだ。「新古今集」詞書によると「山家の秋の心」という題詠で、山すその田を見回りに行った人の立場で、早朝の田園の風情を詠んだ歌です。)
●「わかれにし その五月雨の 空よりも 雪ふればこそ 恋しかりけれ」(あの人と別れた日、雨がしきりに降っていた。涙にかき暮れて眺めたあの梅雨空が切なく思い出される。…あれから時が経ち、冬になって、雪の降る寒空を見上げれば、いっそうあの人のことが恋しいのだ。「後拾遺集」5月頃、親しかった女性に先立たれ、その年の冬、雪の降った日に詠んだ歌です。)
●「かりそめの うきよの闇を かき分けて うらやましくも いづる月かな」(その場限りに過ぎない現世の闇の中をかき分けて進み、うらやましいことに、その外へと出て行った月なのだあなたは。「詞花集」周防内侍が尼になったと聞いて贈った歌です。)
●「箱根山薄紫のつぼすみれ二しほ三しほたれか染めけん」(箱根山の薄紫色のつぼすみれは、一体誰が二度、三度と染料に浸して染めたのでしょうか?「堀河百首」江戸時代、匡房の歌から発想を得た芭蕉は、逢坂山を越えていく山路で「山路来て何やらゆかしすみれ草」の句を詠んでいます。) |
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●59番・赤染衛門は匡房の誕生に大喜びし、産着を縫い上げ、歌を添えて贈っています。「雲の上に のぼらむまでも 見てしかな 鶴の毛衣(けごろも) 年ふとならば」(長生きしてこの子が殿上人となる日を見てみたい。「後拾遺集」)匡房は期待以上の出世を果たしたことになります。
●「十訓抄」に匡房がまだ若く蔵人として宮中で忙しく働いていた時、学者らしい生真面目な面もあったようで、若い女房にからかわれた逸話が残っています。御簾の中から和琴(吾妻琴)を押し出して、「芸などおできになりますまい。琴でも弾いてみなさい」と女房から声をかけられ、「逢坂の 関の彼方も まだ見ねば 東(あづま)のことは 知られざりけり (まだ逢坂の関から東へ行ったこともないので(まだ女性との逢坂を越えておりませんので)、東のこと、吾妻琴の弾き方はよくわかりません」と、歌で即答しました。女房たちはとても返歌ができそうになかったので、笑いもせずしんと静まって、皆立ち去ってしまいました。
●京都・宇治市の平等院建立にあたって、時の関白藤原頼通が「寺院の門が北向きだが、古今に例はあるのだろうか」と問われ、すらすらと答えたとのエピソードがあります。当時右大臣だった藤原宗忠(むねただ)の日記「中右記(ちゅうゆうき)」には匡房について「才智は人に過ぎ、文章は他に勝る、誠に是れ天下の明徳なり」と称えています。ただ、「心性は委曲(いきょく)、すこぶる直(ちょく)ならざる事あり」という記述もあります。ずば抜けた才能の持ち主だが、性格はちょっと…ということでしょうか。
●歌合で匡房に勝つのは、猛将源義家(みなもとのよしいえ:通称は八幡太郎)の顔を打つようなものだ、それほど難しいと言われました。この義家に兵法を教えたという話も伝わっています。前九年の役に勝利した義家の話をたまたま立ち聞きした匡房が、「将軍の器だが、戦い方を知らないようだ」とつぶやきます。家来からその言葉を聞いた義家は、匡房に弟子入りを志願します。のちに後三年の役で、降下してきた雁の群れが突然列を乱して飛ぶのを見て、兵が野に待ち伏せしているのを察知したのも、匡房に学んだ成果だと言われています。 |
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●59番・赤染衛門の曾孫として誕生した匡房は、4歳で書を読み、18歳で最高の国家試験に合格した秀才です。 |
●赤染衛門は産着を縫い上げ、歌を添えて贈っています。 |
●千種殿の西半分を購入して、江家文庫(ごうけぶんこ)を設立し、多くの書物を保管しました。五条通と新町通が交差する付近が千草殿跡です。ガイドマップ平安京図会の平安京復元図が参考になります。 |
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●歌合で匡房に勝つのは、猛将源義家(みなもとのよしいえ:通称は八幡太郎)の顔を打つようなものだ、それほど難しいと言われました。この義家に兵法を教えたという話も伝わっています。 |
●堀河天皇によって催された「堀川院御時百首和歌」は有名で、匡房も詠進しています。堀河天皇の里内裏跡は堀川通り二条下る東側にあります。道路の向かい側に二条城が見えます。 |
●藤の古木で有名な三大神社の境内に「時雨せぬ 吉田の村の 秋をさめ 刈り干す稲の はかりなきかな」の歌碑があります。 |
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