プロフィール 待賢門院堀河

待賢門院堀河
(たいけんもんいんのほりかわ。12世紀頃)

  神祇伯(じんぎはく)・源顕仲(みなもとのあきなか)の娘。前斎院令子(さきのさいいんれいし)内親王に仕えて前斎院六条と名乗り、その後、崇徳院の生母、待賢門院(たいけんもんいん:鳥羽院の中宮・璋子(しょうし))に仕えて「堀河」と呼ばれました。一度は結婚しましたが、幼い子を残して夫は亡くなったという説もあります。77番・崇徳院は政略で退位させられますが、その時(1142年)に待賢門院璋子も法金剛院(仁和寺の子院)において出家し寂しく余生を送りました。堀河も一緒に出家して、生活をともにしたといいます。久安元年(1145年)に女院が亡くなると、その一周忌が終わるまで他の女房たちと一緒に法金剛院にこもって院をしのんでいたと伝えられています。院政期歌壇の歌人として、崇徳院に認められていたらしく、14人の歌人が詠んだ「久安(きゅうあん)百首」の作者の一人です。自撰家集「待賢門院堀河集」には崇徳院からほととぎすの歌を10首もいただき、返歌をせかされた様子が記されています。86番・西行とは歌を通して親交があり、2人の歌の贈答が「西行法師集」に見えます。待賢門院の死を悲しみあう西行との贈答歌や、彼女の妹である上西門院兵衛(じょうさいもんいんのひょうえ)との姉妹連歌が残っています。女房三十六歌仙に選ばれ、「金葉集」以下の勅撰集に66首入集しています。
代表的な和歌
●「つれなさを いかに忍びて 過ぐしけむ 暮れ待つほども 耐へぬ心に」(冷たく放っておかれてもあの頃はどうして耐えられたのでしょう、今は夕暮れまで待つこともできない弱い心なのに。)
●「疑ひと 心の占(うら)の まさしさは とはぬにつけて まづぞ知らるる」(本気だろうかと疑った心の中での占いは、訪れのない現実に問うまでもなく正しかったと、真っ先に思い知らされるのです。)
●「憂き人を 偲(しの)ぶべしとは 思ひきや わが心さへ など変はるらむ」(つれない人のことをいつまでも慕い続けるとは、夢にも思いませんでした、私の心でさえこんなにも変わるのだから、あの人が心変わりしたのも当然なのでしょう。)
●待賢門院璋子が亡くなり寺に籠って喪に服しているとき、西行からの慰めの歌が届きました。「尋ぬとも 風のつてにも 聞かじかし 花と散りにし 君が行衛(ゆくえ)を」(亡くなった璋子(たまこ)様の行方は、わからなくなってしまいました。散っていく花のように、訪ねることができません。)その返しに、 「吹く風の 行衛(ゆくえ)知らする 物ならば 花と散るにも 後れざらまし」(璋子(たまこ)様の行方が分かるならば、すぐにでも訪ねて行きたいものです。今は死ぬこともできず残念でなりません。)
●恋と月の歌にその境涯の思いが漂います。「わすれにし 人はなごりも 見えねども 面影のみぞ たちもはなれぬ」
●「やまの井の あさきこころを しりぬれば 影みむことは 思ひたえにき」(一度つき合った男からの再交際を断った歌)
●「あやめぐさ かけてもいまは とはぬまに うき寝ばかりぞ たえせざりける」(一度交際をし直したい女の代作)
●月を詠んだ印象的な歌「うき世にも 月に心はなぐさむを つひにいかなる 闇にまよはむ」 「ありしにも あらぬうき世に かはらねば 月ぞむかしの かたみなりける」
エピソード
●「今鏡」では「かやうなる女歌よみは、世にいて来たまはんことかたく侍るべし」(このよう女の歌詠みは、世に出てくることはめったにない)といわれる一流歌人でした。待賢門院が亡くなった翌年の6月、待賢門院が出家後住んだ法金剛院を訪ね、待賢門院をしのんでいます。詞書に「待賢門院かくれさせ給て後六月十日比 法金剛院に参りたるに、庭も梢もしげりあひて、かすかに人影もせざりけれは、これに住み初めさせ給ひし事など、只今の心ちして哀つきせぬに、日ぐらしの声たえず聞えければ」として「君こふる なげきのしげき 山里は  ただ日くらしぞ ともに鳴きける」(亡きお方が恋しくて、私は何度も悲しい溜息をついてしまう。そんな思い出の多すぎる山里に、人影はなく、いっしょに泣いてくれる人はいない。ただ蜩だけが私の泣き声に合わせてくれるだけだ。「玉葉和歌集」)
●待賢門院が亡くなった翌年の6月、待賢門院が出家後住んだ法金剛院を訪ね、待賢門院をしのんでいます。待賢門院が造園させた浄土庭園の「青女(せいじょ)の滝」が現在も残されています。 ●86番・西行とは歌を通して親交があり、待賢門院の死を悲しみあう西行との贈答歌が残っています。西行は待賢門院を深く思慕していたといわれています。
●法金剛院の西側に、鳥羽天皇中宮待賢門院の陵墓とその皇女上西門院の陵墓、上西門院花園東陵があります。 ●院政期歌壇の歌人として、崇徳院に認められていたらしく、14人の歌人が詠んだ「久安(きゅうあん)百首」の作者の一人です。写真は崇徳院の御所があった「柳の水」です。