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中納言兼輔
(ちゅうなごんかねすけ。877年~933年)
藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)。57番・紫式部の曾祖父、25番・三条右大臣藤原定方はいとこにあたります。兼輔は、定方より4歳年下で、幼い頃から仲が良かったようで、後に定方の娘と結婚します。従三位中納言となり、右衛門督(うえもんのかみ)を兼ねるまで昇進しました。三十六歌仙の一人です。和歌・管弦に優れ、妻の父である定方とともに当時の歌壇の中心的な人物でした。堤第(つつみてい)という屋敷が鴨川堤にあり、「堤中納言」と呼ばれていました。人当たりの良さからか、この屋敷には様々な人が訪れ、和歌や管弦を楽しみました。35番・紀貫之や29番・凡河内躬恒など優れた歌人・文人たちが度々屋敷に集い、無名の若い歌人も招いてよく面倒を見ました。定方とともに、歌壇の後援者的存在であったといえます。出世のチャンスを与えてくれた醍醐天皇を慕っていましたが、その死にショックを受けてほどなく亡くなりました。「古今集」(4首)以下の勅撰集に58首入集しています。家集に「兼輔集」がありますが、「みかの原」の歌は入っていません。よみ人知らずだった歌を「新古今集」を選ぶ際に兼輔作にしてしまったのではといわれています。 |
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●「人の親の 心はやみにあらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」(子を持つ親の心は闇というわけでもないのに、親たる者、子供のこととなると、道に迷ったかのように、どうすればよいか分からず混乱してしまうことですよ。「後撰集」子を思う親の心を詠んだ歌として有名です。「源氏物語」などの散文で「心の闇」といえば、親心を意味するほど広く人々に親しまれ、共感を得ました。詞書によると、歌の仲間と酒を飲んだ席で、子どもたちのことが話題になった時に詠んだ一首です。)
●「白雪の 今朝はつもれる 思ひかな 逢はでふる夜の ほどもへなくに」(白雪のように今朝は積もっているあなたへの思いですよ。お逢いできずに過ごした夜はそれ程積み重なってはおりませんのに。「後撰集」恨むことあって実家に帰ってしまった女のもとに、雪の深く積もった朝、迎えの車を派遣した時の手紙に添えた歌です。)
●「ねぬ夢に 昔のかべを 見つるより うつつに物ぞ かなしかりける」(眠っていたのではないのに、夢のような幻として、亡き妻の筆跡の書かれた壁を見てからというもの、目覚めている間も、何となく悲しくてならないことだ。「後撰集」妻の死後、住居の壁に妻が生前書きつけた筆の跡を見て詠んだ歌です。)
●「みじか夜の ふけゆくままに 高砂の 峰の松風 吹くかとぞ聞く」(短い夏の夜が更けてゆくにつれて、ますます趣深く響く琴の音を、あたかも高砂の峰の松に風が吹きつけ音を立てているのかと聞くことだ。「後撰集」夏の夜、琴の名手であった清原深養父が琴を弾くのを聞いて、松風にたとえてほめています。)
●「咲きにほひ 風待つほどの 山ざくら 人の世よりは 久しかりけり」(今を盛りに咲き誇り、やがて風に吹かれて散る時を待つ山桜ですが、あの方の一生のはかなさに較べれば、それでも長続きするものだと思われることです。「新勅撰集」桜の花盛りの頃、宇多天皇の皇子・敦慶親王が、44歳で亡くなった時、いとこの定方に贈った歌です。)
◆返歌「春々の 花は散るとも 咲きぬべし またあひがたき 人の世ぞ憂き」(春ごとに咲く花は、散ってもまた翌年には必ず咲くでしょう。しかし、一たび死ねばまた再び逢い難い人の世はつらく思われます。「続古今集」兼輔と定方との親密な関係がわかります。) |
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●「大和物語」45段に、醍醐天皇に更衣(こうい)として入内させた娘・桑子(そうし)の話があります。「帝はあの子をどのようにお思いになっておられるだろうか。」とたいそう心配して、醍醐天皇に直接あてて「人の親の 心はやみにあらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」の歌を贈ったというのです。帝は心を深く動かされ、やがて第十三皇子・章明(ふみあきら)親王が生まれたということです。この歌は兼輔の代表歌として、高い評価を受けています。紫式部も自分の曾祖父の歌を「源氏物語」の中にくり返し引用しています。
●「兼輔集」は贈答歌を中心に集められた家集です。送別の宴を用意したのに部下から待ちぼうけをくわされたり、挨拶が遅れる部下がいたり、彼らとの間に交わされる歌は、怒りや皮肉よりユーモアがあって、世話好きで寛容な人柄が感じられます。「大和物語」73段にもよく似た話があります。地方の国の守が、任地に下った時、お別れの宴を兼輔が用意して、待っていたのに日が暮れるまで来なかったので歌を贈ります。「別るべき こともあるものを ひねもすに 待つとてさへも 嘆きつるかな」(お別れしなければならないということだけでも悲しく思われますのに、さらに一日中待っても、おいでにならないので、重ね重ね悲しみ嘆いたことですよ。)うっかりしていた国の守は、慌ててやって来たそうです。
●「大和物語」135段には定方の娘と逢い始めた頃のことが記されています。兼輔はまだ身分が低かったせいか、女は気が進まないようでしたが、宮仕えの忙しさに兼輔の訪れが遠のいたので歌を詠んでいます。「たき物の くゆる心は ありしかど ひとりはたえて 寝られざりけり」(あなたとお逢いしたことを後悔する心はありましたが、今やあなたが恋しくて、一人寝はできません。「新拾遺集」三条右大臣女。「くゆる」は香が「燻る(けむる)」と「悔ゆる」の掛詞。「ひとり」は「火取り(香炉)」と「一人」の掛詞です。) |
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●堤第(つつみてい)は、平安前期、正親町小路南で東京極大路東の鴨川堤にあった兼輔の邸宅で、堤中納言邸とも呼ばれました。その後、兼輔の曾孫である紫式部も住みました。現在は船岡山の南にあった廬山寺が移転されています。 |
●「人の親の 心はやみにあらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」という親心を詠んだ歌は、兼輔の代表歌として、高い評価を受けています。紫式部も自分の曾祖父の歌を「源氏物語」の中にくり返し引用しています。 |
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●兼輔の邸には35番・紀貫之や29番・凡河内躬恒など優れた歌人・文人たちが度々集い、無名の若い歌人も招いてよく面倒を見ました。 |
●内裏清涼殿落雷事件の後、醍醐天皇が亡くなると、その死にショックを受けて、兼輔もほどなく亡くなりました。 |
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