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陽成院
(ようぜいいん。868年~949年)
第57代天皇。清和天皇の皇子で、母は「伊勢物語」の二条后のモデルとされる藤原高子(たかいこ)です。9歳で即位し、15歳で元服すると、時の権力者である関白藤原基経(もとつね:高子の兄)と対立するようになります。17歳で基経によって退位に追い込まれ、55歳の光孝天皇に位を譲ります。退位の原因については、はっきり記されていませんが、乱暴なふるまいが多く、乳母子(めのとご)を宮中で殴り殺してしまったといううわさや、帝の若い側近たちが目に余る行動を繰り返したとか言われています。その3年後、光孝天皇は退位し、その第七皇子が宇多天皇として即位しましたが、かつて自分の侍従を勤めていた人物でした。この新帝の行列が陽成院の邸の前を通った時、院は「当代はわが家人にあらずや」(今の帝はわたしの臣下だった人間ではないか)と怒ったそうです。(「大鏡」)。その後60年余り、上皇として過ごし、82歳で亡くなりました。精神的な病のため、異様な行動は退位してからも続き、天下の悩みの種となりました。大変な馬好きで30頭もの馬を飼っていました。家来を従えて馬を走らせ、女子どもを鞭(むち)や棒(ぼう)で打ち散らしたとか、家をめちゃくちゃに壊したとか残酷な話が伝わっていますが、退位に追い込んだ基経の工作ではないかという説もあります。 |
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なし。歌人としては一流ではなく、「後撰集」に「つくばねの」の一首のみしか残されていませんが、「陽成院歌合」なども行われており、歌への関心は少なくなかったと思われます。 |
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●「大和物語」の14段「池の玉藻」15段「夜の白玉」には、陽成院に召されたのに、その後顧みられなくなった女性から恨みの歌を送られる話があります。
●陽成天皇は摂政基経によって17歳で退位に追い込まれました。不本意に退位した人については、恐ろしいうわさや、妖怪談が生じたりするもので、世間によく知られていたようです。「宇治拾遺物語」巻12の「陽成院化け物の事」には、陽成院が退位されてから後の御所は物(もの)の怪(け)の住む所であったと記されています。大きな池に臨んだ釣殿(つりどの)に夜番の男が寝ていると、水色の上下(かみしも)を着たみすぼらしい翁(おきな)が出てきます。千二百年余り前から住んでいる浦島太郎の弟だと名のり、社を造って祭ってくれたらお守りしますと言います。自分だけでは決められないので院へ申し上げると答えると、夜番をけり上げて一口で食べてしまったのです。また「今昔物語」巻27の「冷泉院の水の精人の形となりて捕らえらるること」は、身の丈三尺ばかりの翁が、寝ている人の顔をなでて恐がらせる話です。腕自慢の男が捕まえて縛り上げると、自分は水の精であると言い、持ってこさせた盥(たらい)の水に溶けて消えてしまいます。
●「今昔物語」巻31の「加茂祭の日一条大路に札を立てて見物する翁のこと」には陽成院の明るい話題が記されています。西八条の80歳になる翁(おきな)が賀茂祭の行列に加わっている孫を見ようと、あらかじめ辻に高札を立て、あたかも陽成院の見物席のように思わせて一人悠々と行列を見物しました。院があとでそれを知って、翁を捜し出させて尋問すると、『院より立てられた札』とは決して書いてない。どうしても孫の晴れ姿を見たいと思ったが、高齢なので人込みで見物して踏み倒されて死んだらつまらぬと思い、人の寄りつかぬ場所でゆっくり見物しようと考えて札を立てたと答えます。院はこれを聞いて「この翁は実にうまい思いつきで札を立てたものだ。孫の晴れ姿を見ようと思ったのはしごくもっともなことである。こやつ、実に頭のいい奴だ」と感心してとがめず、「すぐ帰ってよい」とおっしゃったという話です。 |
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●岡崎神社は、陽成院の誕生の時、母・高子が安産祈願を行って以来、安産の神様として信仰されています。多産の野うさぎが多くいたことから、神使とされました。境内にうさぎの彫刻があり「うさぎ神社」として現在も親しまれています。 |
●時の権力者である関白藤原基経(もとつね)によって17歳で退位に追い込まれた陽成院が、上皇となって営んだ御所が陽成院跡です。初めは二条院といわれていました。物の怪の住む場所であったという説話が残っていますが、現在は夷川児童公園になっています。 |
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●平安時代の歴史書によると9月29日「冷然院にて崩ズ」とあり、82歳で亡くなりました。冷然院跡は代々の上皇御所の一つです。然が燃に通じることから冷泉院と改名しました。 |
●10月3日「神楽岡東地ニ葬り奉テマツル」と歴史書に記されています。左京区浄土寺真如町の吉田山の麓に陽成院陵があります。 |
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