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大弐三位
(だいにのさんみ。999年頃~1070年か1082年頃)
57番・紫式部の一人娘、藤原賢子(ふじわらのかたいこ・けんし)のことです。母の紫式部同様、一条天皇の中宮彰子に仕え、越後弁(えちごのべん)と呼ばれていました。父の藤原宣孝(のぶたか)は3歳の時に急死しており、父の顔を知らずに育ちましたが、性格は父の自由で明るい所を受け継いだようです。母の紫式部は新しい夫を持とうとしなかったので、祖父・為時のもとで成長しました。数年後、母は中宮彰子に出仕しましたが、娘を深くいつくしみ、学問や教養を身につけさせました。ところが、15歳の時に母は他界し、母の後を継ぐように彰子のもとに出仕したところ、和歌が巧みで、さすがあの紫式部の娘だと評判をとりました。藤原道長の次男・頼宗や64番・藤原公任の長男・定頼ら、摂関家の貴公子に愛され、また、定頼の後任として蔵人頭(くろうどのとう)になった源中将朝任(ともとう)とも交際がありましたが、藤原兼隆(かねたか)の妻になりました。その頃、親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母(めのと)に選ばれます。即位にあたり、女房としては最高の三位典侍(さんみのすけ)に昇叙されました。30代半ばに太宰大弐正三位・高階成章(たかしなのしげあきら・なりあき)と再婚したので、夫の官位から大弐三位と呼ばれました。母親ゆずりの文才に恵まれていたので「狭衣物語」や「源氏物語」の「宇治十帖」の作者ではないかという説もあります。彼女の歌は、「後拾遺集」以下の勅撰集に37首の歌が入集しています。家集に「大弐三位集」があります。歌壇での活躍も多く、承暦2年(1078)には、内裏後番歌合で、我が子為家の代詠をつとめています。兼隆との間にもうけた娘や孫の源知房、あるいは成章との間にもうけた為家の世話を受け、平穏な晩年を送ったものと思われます。83歳頃に亡くなりました。 |
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●家集には藤原公任の息子・中納言定頼(さだより)との応答が多くみられます。「新古今集」に2人の贈答歌が入集しています。「梅花に添へて、大弐三位につかはしける」として
「見ぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむのちの 慰めぞなき」(花の香に、いつまで待っても逢わないあなたの代わりと思って、我が家の梅を眺めていました。花が散ってしまったら、後はもう何の慰めもありません。中納言定頼)
返しに「春ごとに 心を占むる 花の柄に たがなほざりの 袖かふれつる」(春が来るたび、あなたの家の梅の花を心待ちにしていました。その枝に、誰が袖を触れてしまったのでしょうか。私みたいに深い思い込みもなく、いい加減な気持で…。)
●「待たぬ夜も 待つ夜も聞きつ ほととぎす 花橘の にほふあたりは」(待たない夜も、待つ夜も、おまえの声を聞いたよ、ほととぎす。橘の花の匂うあたりで。「後拾遺集」ほととぎすは橘の花を好むとされていました。)
●「つらからむ 方こそあらめ 君ならで 誰にか見せむ 白菊の花」(あなたの私に対する態度には薄情な面がありますが、それでもあなた以外の誰に見せましょうか、この白菊の花を。「後拾遺集」通いが途絶えがちになっていた藤原定頼に、菊の花に挿して贈った歌です。)
●「梅の花 なににほふらむ 見る人の 色をも香をも 忘れぬる世に」(梅の花よ、なぜそんなに美しく咲き匂っているのか。おまえを見て賞美すべき人が、すでに出家して、色も香も忘れてしまった世であるというのに。「新古今集」万寿3年(1026)春、上東門院藤原彰子が出家した時の歌です。) |
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●和泉式部と娘の小式部内侍と同じく、大弍三位も母の紫式部と2代にわたり彰子に仕えました。「あの有名な母親の娘」ということで注目を集め、多くの貴公子から誘いを受けたところも共通しています。藤原道長の次男・頼宗や藤原公任の長男・定頼と恋仲になった点も共通しています。ただし、小式部内侍が20代で亡くなったのに対し、大弍三位は80歳代と長寿でした。夫の成章が大弍(大宰府の次官)になると、60歳に近い彼女は、夫を訪ねて2回も九州へ下向しています。歌人としては80歳前後まで現役で、内裏での歌合など、公の歌席にも出詠していました。また、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)、藤三位(とうさんみ)、大弍三位(だいにのさんみ)と、女官名が多いのも、女官としての経歴の長さを表しています。
●親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母(めのと)を務めましたが、生後2日目に実母を喪った親仁親王に慕われ信頼を寄せられました。彼女が里に帰ったことを耳にした皇太子時代の親仁親王から贈られた歌と、彼女の返歌が「新古今集」に収められています。「待つ人は 心ゆくとも すみよしの 里にとのみは 思はざらなん」(そなたを待っていた夫は心が満ち足りていることだろう、でも住みよい里だと長居はしないでほしい、今度は私が待っているのだから。後冷泉院)、大弍三位の返歌は「住みよしの 松はまつとも 思ほえで 君が千歳の 陰(かぜ)ぞ恋しき」(住吉の松は私を待っている松とも思えません、その千年の松の木陰よりも、千歳もお栄えになるわが君のお側が恋しくてなりません)親王への祝歌で応じたテクニックが光ります。後世、歌を返す手本としてほめたたえられました。 |
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●大弍三位は紫式部の娘です。和泉式部・小式部内侍と同じく、母娘の二代にわたり一条天皇の中宮彰子に仕えました。枇杷殿跡は一条天皇の里内裏跡で、京都御苑内にあります。 |
●30代半ばに高階成章(たかしなのしげあきら・なりあき)と再婚しました。後に夫が太宰大弐正三位(大宰府の次官)となったので大弐三位と呼ばれました。夫を訪ねて二度も九州まで行っています。 |
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●後冷泉天皇(親仁親王)の乳母(めのと)として信頼されました。親仁親王への返歌「住よしの 松はまつとも 思ほえで 君が千歳の 蔭ぞ恋しき」は名歌として知られています。住吉は平安時代には松の林が続く美しい砂浜でした。現在は埋め立て地ですが、住吉大社に松林は残っています。 |
●歌人としては80歳前後まで現役で、内裏の歌合など、公の歌席に出詠しています。 |
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