プロフィール 権中納言定頼

権中納言定頼
(ごんちゅうなごんさだより。995年~1045年)

  藤原定頼。56番・四条大納言藤原公任(きんとう)の自慢の長男で、正二位権中納言まで昇進し、四条中納言と呼ばれました。母は村上天皇の孫娘で、評判の美女でした。博学多才で知られた父と同様に、和歌だけでなく書道や管弦、誦経(ずきょう)にも優れ、容姿が美しい風流な貴公子でした。58番・大弐三位や65番・相模など同時代の女流歌人との恋愛も多く、逸話も残っています。特に60番・小式部内侍(こしきぶのないし)の歌を母の代作ではないかとからかって、逆にすばらしい歌でやりこめられた話は有名です。実は彼自身が、父の公任に歌づくりを手伝ってもらっていたそうです。軽率なところがある人で、三条天皇のお供として奈良の春日大社へ出かけた時、自分の従者が敦明親王の従者といさかいを起こしたのを見て、かっとなり、親王の従者を打ちすえてしまいます。これにより天皇の怒りを買って、5年間行事の役を停止、謹慎(きんしん)させられたこともあったといいます。病により出家した翌年、51歳で亡くなっています。家集「定頼集」(「四条中納言集」とも)があります。
代表的な和歌
●「見ぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむ後の なぐさめぞなき」(逢いたいと思っても逢わないあなたの代わりと思って、我が家の梅を眺めていました。花が散ってしまったら、私は何も慰めにしたらいいのでしょうか。「新古今集」梅の花にそえて、58番・大弐三位に贈った歌です。)
●「吹く風を いとひもはてじ 散りのこる 花のしるべと 今日はなりけり」(吹く風を一方的に嫌がったりはするまい。今日は、散り残った花がどこにあるか、その場所を教えてくれる道案内になったのだ。「続後撰集」)
●「水もなく 見えわたるかな 大井川 峰の紅葉は 雨と降れども」(大井川は、見渡す限り川面を紅葉に覆われて水がないように見えるよ。嵐山の峰から、紅葉は雨のように降っているのに。「後拾遺集」公任・定頼父子の歌説話が「西行上人談抄」にあります。一条天皇の大井川行幸にお供した時、公任は自分の歌より息子の歌の出来を心配していたところ、豊かな水量の大井川を前に「水もなく」という上の句を聞き、失敗したかと顔色を失いました。しかし、下の句を聞くと、川面を紅葉がおおって流れる壮観さを詠んだのだとわかり、優れた詠みぶりに笑みを浮かべたといいます。)
●「つれづれと ながめのみする この頃は 空も人こそ 恋しかるらし」(手持ち無沙汰にじっと空を眺めてばかりいる今日この頃、こんな時節は、空の方も人が恋しいらしいですねえ。「風雅集」毎日雨の降る頃、恋人のもとに贈った歌です。雨を空の涙と見なし、空も人を恋しがっているのだと詠んでいます。)
●「八重むぐら しげれる宿に つれづれと とふ人もなき ながめをぞする」(幾重にも葎(むぐら)が繁っている荒れた家で、気の紛れることもなく、訪れる人もない、そんな有様で、長雨を眺め、ぼんやり物思いにふけっています。「風雅集」22歳の初夏、雨が降る日に父の公任に贈った歌です。)
エピソード
●「宇治拾遺物語」に、定頼が法華経を美しい声で読み上げる逸話があり、読経の名手であったことがうかがわれます。当時、人気のある女性のもとには貴公子が何人も通ってきました。ある夜、頼宗が小式部内侍とデート中に、定頼が訪ねてきたのですが、先客があると知って、美しい声で法華経を唱えながら去っていきました。定頼の魅力的な声を耳にした小式部はむせび泣いて頼宗にくるりと背を向けてしまいます。「故事談」には、この後、教通は何事も定頼に劣ってはなるものかと決意して、法華経を熱心に読むようになったと記されています。
●「栄花物語」に、定頼は「みめ、容貌(かたち)、心ばせ、身の才(ざえ)いかでかありけん」とあり、親孝行な息子であったようです。学才豊かな父に質問を投げかけては、父に答える喜びを与えている姿が印象的です。定頼が歌合・歌会で歌を詠む時には、公任がさまざまな助言をしたようですが、定頼47歳の時に、父の公任は亡くなっています。
●定頼の恋愛エピソードは多く、ある女性に届けるはずの恋文を、もう別れてしまった女性に届けてしまったことがあります。その言い訳の歌が「定頼集」にあります。「忘られぬ 下の心や しるべにて 君が宿には ふみたがへけむ」(心のどこかに秘められていたあなたを忘れられない思いが、自分でもわからないうちに手びきをしたのでしようか、踏み違えて手紙を間違えて届けてしまいました。)また、65番・相模との恋愛も有名です。「定頼集」には遠国の名のある女性からあなたの形見がほしいとせがまれて鏡を贈ったとの記述があり、女性の返歌も載せられていますが、相模ではないかという説があります。「君が影 みえもやすると ます鏡 とげど涙に なほ曇りつつ」(もしやあなたの面影が映るかと贈られた鏡を磨いても涙で曇るばかりです。)
●紫式部の娘・大弍三位には梅の花をそえて歌を贈っています。「見ぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむ後の なぐさめぞなき」(逢いたいと思っても逢えないあなたの代わりと思って、我が家の梅を眺めていました。花が散ってしまったら、私は何も慰めにしたらいいのでしょうか。) ●一条天皇の大堰川行幸の際には、川面を埋めつくし、嵐山から雨と降る紅葉の美しさを詠んでいます。「水もなく 見えわたるかな 大井川 峰の紅葉は 雨と降れども」(大井川は、見渡す限り川面を紅葉に覆われて水がないように見えるよ。嵐山の峰から、紅葉は雨のように降っているのに。)
●和歌だけでなく書道や管弦、誦経(ずきょう)にも優れ、容姿が美しい風流な貴公子でした。58番・大弐三位や65番・相模など女流歌人との恋愛も多く、逸話も残っています。 ●小倉百人一首の編纂の舞台となった嵐山・嵯峨野では100基の歌碑めぐりを楽しめます。「朝ぼらけ」の歌碑は、中之島公園よりさらに下流にある嵐山東公園にあります。