プロフィール 僧正遍昭

僧正遍昭
(そうじょうへんじょう。816年~890年)

 俗名を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といい、桓武天皇の孫にあたる人で、大納言安世(やすよ)の子です。美男で人柄もよく女性にも人気があったそうです。仁明(にんみょう)天皇にかわいがられ、蔵人頭(くろうどのとう:天皇秘書官のトップ。宮廷での出世コースでした。)となりましたが、嘉祥3年(850)、仁明天皇の死を悲しみ、葬送の夜、妻にも内緒で行方不明になり、35歳で出家します。その時に残された子が21番・良岑玄利(よしみねのはるとし)で、後の素性(そせい)法師です。比叡山に入り、慈覚大師に付いて修行をし、後に元慶寺(がんぎょうじ:花山寺)を創建して座主(ざす)となりました。仁和元年(885)10月22日、15番・光孝天皇は遍昭を僧正に任命し、12月18日には遍昭の七十の賀(70歳になったお祝い)の宴会を開き、夜通し語り合ったそうです。(「三代実録」)光孝天皇は、仁明天皇の皇子であり、父を慕って出家した遍昭とは早くから親しい関係にありました。翌年には、輦車(てぐるま※)で内裏に入ることを許可しました。その時の勅(ちょく:命令書)には、今日の自分があるのはすべて遍昭のおかげと感謝が記されていました。六歌仙、三十六歌仙の一人で、「古今集」には宗貞として3首、遍昭として14首が収められています。9番・小野小町のもとへ九十九夜かよいつめながら思いかなわず死んだとされる悲恋の少将、「深草少将」のモデルは僧正遍昭とも大納言義平の子義宣ともいわれています。説話をもとにした謡曲に「通(かよい)小町」、猿楽に「四位少将」があります。※屋形に車を付けて、何人かに手で引かせる乗り物です。内裏の中は歩くのが普通でしたが、親王・女御・摂政関白などがこれに乗って入ることを許されました。
代表的な和歌
●「たらちめは かかれとてしも ぬばたまの わが黒髪を 撫(な)でずやありけん」(母はこんな頭になれ、世捨て人になれ、と幼い私の黒髪をなではしなかっただろうに。「後撰集」母親の期待に背いて、出家してしまった後ろめたさを詠んだものです。) 
●「みな人は 花の衣に なりぬなり 苔(こけ)の袂(たもと)よ かわきだにせよ」(人々はみな忌明けとともに花のようにきれいな着物に戻ったそうだが、私はあの時以来僧侶の粗末な着物のままである。だが私の衣の袖よ、せめて涙にぬれないで乾いてほしいものだ。「古今集」に長い詞書があります。仁明(にんみょう)天皇の御代に、蔵人頭として昼夜、帝の身辺にお仕えしていたが、帝が亡くなってしまったので、以来まったく世間づきあいを絶ち、比叡山に登って出家してしまった。その翌年、人々はみな喪服を脱いで、ある人は官位が昇進したりなどして、喜んでいると聞いて詠んだ歌です。)
◆「石の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を われに貸さなん」(今宵は石上寺の岩の上で旅寝をするので、たいそう寒いです。岩に苔はつきもの。苔の衣とも呼ばれているあなたの僧衣を、私にお貸しいただけませんか。「後撰集」石上寺に遍昭がいると聞いて詠んだ小町の歌です。)
●「世をそむく 苔(こけ)の衣は ただ一重(ひとえ) 貸さねば疎し いざ二人寝ん」(俗世を離れた苔の衣(僧衣)は、ただ一重で人に貸すわけにはまいりませんが、お貸ししなければ薄情過ぎます。いっそのこと、この一枚の衣で二人一緒に寝ましょうか。「後撰集」出家後も小町と歌を詠み交わすほどしゃれた人物でした。)
●「浅みどり 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春の柳か」(新芽のついた枝が浅緑色の糸をより合わせたものならば、そこに置いた白露は糸に貫かれた水晶の玉、春の柳よ。「古今集」の詞書に「西の大寺の辺の柳」を詠んだとあります。)
●「蓮葉(はちすば)の 濁(にご)りに染(そ)まぬ 心もて 何かは露を 玉とあざむく」(蓮は泥の中に育ちながら、それにも染まらない清らかな心をして、なぜ葉の上に降りた露を玉に見せかけるのか。「古今集」)
●「名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花(おみなえし) われ落ちにきと 人に語るな」(名前にひかれて手折っただけだよ、女郎花よ、僧侶の私が女性と契る罪に墜ちたとのうわさ広めないでほしい。「古今集」家集によると、花を手折ろうとして落馬し、落ち臥(ふ)しながら詠んだ歌だそうです。失敗を笑いに変える巧みさがある人でした。)
エピソード

●「文徳実録」に「宗貞は先皇の寵臣(ちょうしん)なり。先皇の崩後、哀慕(あいぼ)已(や)むことなし。自ら仏理に帰し、以て報恩(ほうおん)を求む」と出家の理由を記しています。秘書官として仁明(にんみょう)天皇に仕えていた宗貞は、天皇のお気に入りの家来でした。その死を悲しむあまり、出家をすることで天皇の恩にむくいたというのです。仁明天皇は幼い頃から病弱で、亡くなる1か月前には重病であった自分の姿を見せないように、御簾(みす)を隔てて朝廷の会議に参加していたそうです。40歳で亡くなっています。
●「今昔物語」巻19の「頭少将良峰宗貞(とうのしょうしょうよしみねのむねさだ)出家すること」にも出家にまつわる心情が細やかに描かれています。信頼されていた天皇が亡くなると、闇に迷うような心地がし、仏道を修行しようと深く思い込みます。たいへん仲むつまじく離れがたい妻と二人の子どもがかわいそうに思われるものの、比叡山に登り出家してしまいます。その何年か後、笠置寺で一人謹行(ごんぎょう)していると、「行く方知れずになった人の消息をお教えください。」と泣かんばかりにお願いしている悲しげな妻の声を聞きます。自分を捜し出そうとして、このようにお参りをして歩いているのだと思うと、哀れに悲しい思いで胸がいっぱいになり「私はここにいるぞ」と言ってやりたいとは思うのですが、ここで知らせて何になろうと堪え忍んで座っているうちに夜明け近くになります。やがて、自分の乳母の子が7、8歳ほどの息子を背中に負い、侍女が4、5歳ほどの娘を抱いて、一面にかかっている霧の中を帰っていったのでした。
●「大和物語」の168段「苔(こけ)の衣」にも、出家にまつわる話が詳しく描かれています。この話では「今昔物語」の笠置寺が初瀬の長谷寺となっていて、妻子が泣きながら話す声を聞きながら、宗貞も泣き明かして、涙のかかった所は血の涙で真っ赤になっていたと表現されています。また、物語の後半には仁明天皇の皇后であった五条の后が宗貞の行方を探させたことや小野小町との歌のやり取り、息子も僧にした話が記されています。
●同じく「大和物語」の173段「五条の女」には、宗貞少将が雨宿りをした五条あたりの貧しい屋敷の女性との恋物語と、出家したことが記されています。 
●山科の元慶寺(がんぎょうじ:花山寺)は、遍昭が陽成天皇の誕生に際して発願し創建した寺です。遍昭は花山僧正と号しました。花の名所で平安時代の女房が花見に訪れています。 ●元慶寺には遍昭作の本人木像、境内には遍昭の「あまつ風」の歌碑、その息子の21番・素性法師の「今来むと」の歌碑が並んで立っています。 ●元慶寺の近くの北花山河原町の路地を入ると、僧正遍昭の墓があります。
●良岑宗貞(よしみねのむねさだ)は仁明天皇の信頼が篤く、天皇の死を悼んで出家しました。北区紫野にある雲林院は、常康親王(仁明天皇の第七皇子)が遍昭に託した寺で、元慶寺の別院になりました。 ●現在の雲林院は小さな観音堂を残すのみですが、平安時代は壮大な離宮であったことがわかっています。境内に「あまつ風」の歌碑があります。   ●9番・小野小町のもとへ九十九夜かよいつめながら思いかなわず死んだとされる悲恋の少将、「深草少将」のモデルは僧正遍昭ともいわれています。この謡曲「通小町」の舞台となったのが山科の随心院です。